国語ができない本当の理由
国語の成績がのびない!という方はぜひこのコラムを参考にしてください。
そして、論理を身に着ける方法について知ってください!
現代文を軽視していませんか?
僕の講義を受けたことのない方は、現代文についてこのように考えている方が多いのではないでしょうか。
・現代文が日本語だからやらなくても何とかなる。
・どう勉強していいか分からない。
・センス・感覚だから、その時の次第だ。
・賢い人なら、しょせんやらなくても日本語で何とかなる。
・現代文は日本語だから何とかなるので、英語や数学を頑張ろう。
現代文は、皆さんが考えているような日本語の日常における運用能力を試すものではないということをしっかりと頭においてほしいのです。
例えば、算数で考えてみます。
日常では算数はおつりの計算ぐらいでしか使わないですよね。でも大学の数学はおつりの計算ができるかどうかを試験で試す訳じゃないですよね。これと同じことが現代文にも言えるのです。
確かに我々は普段日本語をしゃべり日本語で読み、日本語で考え、日本語で書いている訳ですけれども、そういった力を試すわけじゃないということなのです。
ただ普通に読んでいてはダメ
では、どうしてかというと、試験問題というのは、ただ普通に読んでも理解できない場面を探しているということなのです。
例えば、評論・論説文と言ったならば、中学生高校生は言語とは何か、芸術の普遍性とは何かこういったことを考えているわけではないですよね。
普通の中学生や高校生が考えてないようなテーマで、しかも論文の文体、論文の用語を使っているのです。中高生が論文の用語や文体を日常で使うこともまずないと思います。
日常は大抵、知っている人との会話や、相手が察してくれるという状況の中で話をするのに対して、問題文は筆者からすれば読み手が不特定多数の誰かで、なぜ今これを文章にするのか、そのことを多くの人が知らないのか、誤解しているのか、間違っているのか、反対の考えの人が多いのかということで書かれています。自分の考えを主張するだけではだめなんだ、多くの人はそのことを知らない。だったら分かるように証拠を挙げなければなりません。(具体例)
さらには多くの人が反対の意見ならば、反対の意見を引っ張り出してひっくり返す。つまり、必ず主張に対しては論証責任が伴うのです。だからその論理というのをしっかり理解していないとだめなのです。
実際に、評論でも日常の日本語の力を見ているわけではない。
我々は普段不特定多数の他者に対して文を書くことはありませんから、そういった不特定多数の他者に向けて論証していくような文章を論理的に読むっていうことを実際に学び、訓練しないと無理だということなのです。
試験で高得点をとるには
短い時間の中で所詮日本語だから何とかなる、では解けないような問題文を主催者は選んでくるのが小説です。試験問題の例外はありますけれども小説は原則として、長い小説の途中の1場面を切り取られます。
時代も現代ではないことが多い。だから1ページ目から我々は文書を読み、いろんな情報を頭の中に入れて、その情報から実際に自分が経験していない世界や人物を作ってきますよね。ところが、試験問題はいきなり途中の場面になり、その時代がどんな時代で人々がどのような価値観のもとに生きてきて、登場人物の性格、生い立ち、この前にどんな事件があったのか、こういったことはほとんど情報として与えられてなくて、その1場面のセリフ、あるいは動作から心情を答えさせるというのが基本的な小説なのです。これは、前もっていろいろな情報を与えられていないので、好き勝手に幾らでも解釈できるのです。
だから正解だったり、間違ったり、これを繰り返していくのです。
その1場面のあらゆる情報を文中から拾い出して客観的に心情分析しなければなりません。こういったことを訓練しないと駄目なのです。
あるいは韻文では、詩や和歌、俳句と言ったならば、皆さんはよく分からない、苦手だ、人によっていろいろな捉え方があるといった感覚だと思っているかもしれない。
でも、大学入試問題では、単独の詩、あるいは和歌短歌、あるいは俳句が出ることはない。どういった形で出題されるかというと、ほとんどが引用です。君たちがこの詩をどう解釈したかじゃなくて、筆者がこの詩をあるいは和歌をどう捉えたか、それは論理的に問題文の中に書いてあるのです。そこをしっかり理解していけばいい。このようにちゃんと論理ということがわかっていれば、訓練すれば面白いように高得点が取れるのです。