森田真生「言葉から立ち上がる世界」
はじめに
出口汪と著名人の対談・真剣勝負、第十一弾は作家で数学をテーマとした著作・講演活動を行う森田真生氏との対話です。
「言葉から立ち上がる世界」をテーマに、対談していきます。
この対談は2013年8月30日に行われたものです。
第一部 ”身体感覚”を数学で語りたい
聴覚で感じる、神
出口
森田さんには2012年8月にラジオ日本「出口汪の平成世直し塾」に出演して頂き、“数学”について、僕が考える “論理”と絡めたお話をしてもらいましたが、その後何かご自身の中で新たな気づきや発見はありましたか。
そうですね、最近自分の中で五感についての「気づき」がありました。人間というのは五感の中で視覚に当たる部分、つまり目をよく使いますよね。僕は活字が身近に無いと落ち着かない、中毒と言ってよいレベルの人間なんです。
例えばトイレに行く時でさえ、何か読むものが無いと落ち着かないんですよ。携帯も持たずにトイレに入った場合などは、財布からカードを取り出してその文字を読むほどで(笑)、それくらい活字が無いとダメな体質なんです。
このように中毒と言ってよいほど視覚依存の生活をしているはずなのに、なぜか僕には視覚による記憶がほとんど無いんですよ。
例えば今、お話しながら僕は出口さんをきちんと見ているはずなのに、家に帰るとおそらく、出口さんの服装や髪型を僕は忘れてしまうと思うんです。でもなぜか声とか、その時の空気感とかは絶対に忘れないんですよね。だから、以前ラジオでお話した時のことを思い出そうとすると、その時の声の響きや言葉のリズムは、すごく記憶に残っていてすぐに思い出せます。でも、容姿についてはあまり覚えていない……。そのようなことが多々あるので、どうも僕は視覚について何かしらの能力が欠如していて、逆に聴覚的な何かが発達しているように思えるんですよ。
なぜ、今このような話から入ったかというと、例えば神様を表現する場合、言葉による方法や絵など、様々な方法を使って表現しようと試みると思うのですが、僕にとっては昔から神様は聴覚的なものという感じがしていたんです。
この体験は、数学をやるようになった原点でもあるのですが、幼い頃「自分がいつか死ぬ」という、自分の有限性に気づいてしまって、宇宙の永遠性と自分の有限性のその対比がとても恐ろしくなったんです。その恐怖の中にいる時、音でしか捉えられないような神というべき何かが僕の中で感じられました。その感覚を味わった頃、ようやく自分の有限性への恐怖を克服した気がします。――僕の肉体っていうのはいつか終わるし、この私の意識っていうものはいつか終わるけど、それを超えた、もっと大きなものが存在して、自分はその一部である――という感覚です。それは視覚によるものではなく、どちらかというと聴覚から得られる感覚でした。
森田
出口
そのお話は面白いですね。僕にも似たような経験があって、視覚によるものは、あまり記憶できないんですよ。僕も森田さんがラジオに来てくれた時のことを思い出そうとすると、どんな服を着ていたかというビジュアルの部分はほとんど記憶に無いです。
そうですよね。なかなかビジュアルの部分には意識が向かない。妻が髪型を変えたのに気づかないことなんかもあります(笑)。
森田
出口
僕も妻の髪型の変化に気づかないことは多々あるのですが(笑)、さすがにこれだけ生きていると、さんざんそういったことで怒られてきたので、だんだんと学習してきました。
話が脱線してしまいましたが、先程森田さんがおっしゃっていた、神とか永遠の世界っていうのは形の無い世界のことですよね。
おそらく神は形を持っていないだろうし、もし形があるとしたらこの宇宙を作った神は、宇宙と変わらないぐらい大きな存在であるはずだから、人間の視覚で捉えることができないわけです。
一方で聴覚ではどうでしょうか。おそらく音は、宇宙の中に永遠にあるものだと僕は思うんです。想像してみてください、例えば宇宙が動き続けているなら、それに伴う音があるはずじゃないかと。動くということは、それが伝達されるかされないかに関わらず、必ず音が発生しますよね。宇宙が活動体であるということは、人間に聞き取れるかどうかわからないけれども、動くことであり、音が発生することでもあるわけです。
ですから、そういう意味では森田さんが自覚として視覚よりも聴覚が発達しているっていうのは、もしかすると幼い時から、そういった宇宙や神のような、形として捉えにくいものに対するアンテナを持っていたんじゃないかなという気がします。
聴覚的なものは分けることもできないし、止めることもできない。境界も無いし、今出口さんがおっしゃったように本当に形が無いものです。でも、なんとなく神というようなものがあるとすると、そういうものなんじゃないかなと思います。
切り離したり、対象化できたり、一目で見ることができるような神っていうのは想像しにくいですよね。
森田
出口
おそらく神が存在すると仮定すると、一人ひとりの、その瞬間瞬間の中に様々な形となって神は存在し、しかし実体としての形は無いんじゃないかなって気がします。
レトリックでしか表せないもの
出口
森田さんは、子供の時から神の存在を意識することがあったのですか。
はい、ありました。幼い頃に感じた、聴覚という身体レベルで意識せざるを得なかった感覚と、キリスト教を信じている人が多いアメリカという場、その中で感じる感覚との間にはギャップがありましたね。アメリカにいた頃は、僕も日曜日に教会へ行ったりしていたので、周りの人達が信じていたり、教えられたりしている宗教感覚をある程度知るわけです。その知識として得たものと、自分が身体感覚として持っているものとのギャップっていうのは、常に自分の中にありました。
その二つのつじつまが合わないことへの苦しみは、アメリカを離れて過ごした中学・高校時代も、自分の中で一つの大きな問題として残っていました。
幼い頃から、キリスト教の世界っていうものがあるらしいっていうことは教わっているので、知識の部分では、どこかでキリスト教的世界を受け容れてますが、もっと感覚的な部分では、全然違った神の概念を持っています。それをどうやって自分の中で矛盾無くつなげていけるだろうか、という問題意識はずっとありました。
森田
出口
例えば、神のお話だけでなく、死後の世界とかいろいろありますけれども、これは死んでみないとわからない話ですよね。だから、理論として考えようとしても無理な話ですから、本当はそこで考えることをストップして、今我々がいるこの世界、あるいは想像可能な範囲での行く末を考える方が、自然なことだと思うんです。
でも、不思議なことに、考えられないといっても考えてしまうのが、人間なんですよね。 自分が死んだらどうなるんだろう、この宇宙はどうなっているんだろうと、自然と考えてしまうのが人間だと思うんです。
それは、もしかしたら単に物を考える行為ではなく、もっと真実に近いと思われる、深い部分から湧き出てくる疑問と向かい合う行為ではないでしょうか。
はい、そうですね
森田
出口
ただ、「それは宗教ではないのか」と問われると、僕は宗教の形というのはあくまで一つのレトリックであり、物語であると考えているので、それとは違う気がしています。
もし、神という存在があるのなら、神は宇宙とほぼ同義というか、それぐらい大きな存在ではないかと僕は思うんです。このように神を視覚で捉えることのできない、もしかするとわずかに聴覚だったら捉えることができるような大きな存在で、なおかつ宇宙万物を育てているエネルギー体のようなものではないかと考えたとすると、それはレトリックでしか語れないものですよね。
例えば、イエスや釈迦等の特殊な人達は多分、宇宙の本質のようなものを体で感じていたのではないかと思います。そういった人が1000年に一度かどうかわからないですけど、確かにいたと思うんです。でも、その存在を他の人に伝える時には、その時代の言葉で、なおかつ、レトリックでしか語ることはできないのではないかと思います。
聖書を例にとってみても、レトリックですよね。
語れないことをいかに語るか
数学における一つの大きな役割に、「語れないことをいかに語るか」という大問題があります。どうしても語れないであろうことを、それでも語ろうとするわけです。それが、やっぱり失敗しましたっていう時に、初めてメタなメッセージとして、“語れないものがある”ということが浮かび上がり、その語れないものさえも、相手に気づかせることが可能になるということが起こるんです。
これはもともとアメリカの文化人類学者グレゴリー・ベイトソンが使ったたとえなんですが、このことを僕はよく、動物の甘噛みの話でたとえます。動物は、噛んでいないということを伝える為にどうするかっていうと、一旦噛みついて、でも本気では噛まないということをしますよね。つまり甘噛みとは、噛むという行動をしながらその行動を完了させないということによって、噛んでいないというメッセージを相手に伝えることができるわけです。
これを人間に置き換えると、言語の一つの使用法として、言語を使用するのだけれども完了させないことによって、もっとメタなメッセージを相手に伝えてしまうという、そういう方法があるのではないかと思います。
そして数学もその一つの方法ではないかと、僕は思っています。つまり数学は言語と記号しか使わないのですが、それらを使って「伝えられないもの」を伝えるために、それらの使用を徹底しながら、その使用が完了しないという形で何かメタなものを伝えるっていう行為なんじゃないかなって思っているんです。だから僕は「数学は甘噛みだ」っていうたとえを時々しています。
森田
出口
語れないことをいかに語るか……僕がなぜ宗教に入らなかったのか。語れないものを語るのが宗教なのですが、その際、やっぱりどの宗教でもレトリックを使うわけです。そして、その時代の言葉を使って表現する。
しかし、そこには必然的に人間の解釈が入ってきてしまいます。天啓を受けた人間の解釈、あるいはそれを取り巻く制度の影響を受けてしまうんです。つまり、人が集まってくれば、そこに必ず権力や、人を引っ張っていくためのルールが作られていきますよね。その中で、かなり言葉が変換されてしまうと思うんです。その上で、「これが正しいんだ、神様はこう言ってるんだ」と言われたら、信者はそれを信じるしかないわけで、我々はそこで思考が停止されてしまうんですよね。
別に宗教を否定するわけじゃないけど、僕は、そういう人間のフィルターを通され、変換された言葉を盲目的・一方的に受け取ることに違和感を感じていて……その先の、目に見えないもの、あるいは語れないものを誠実に語りたい、という考えが自分の中にずっとあって。
いまお話を伺っていて、森田さんはそれに近いことを数学を使って行われていらっしゃると思うし、僕にとってそれは文学だったんですよ。
なぜ道徳ではなかったのかというと、道徳というのは、やはり「これが正しい」と主張しますよね。しかし、文学は「これが正しい」と言わないんです。でも、まさに人間の実存を、それこそ手応えのある塊として引っ張り出そうとする試みですよね。特に夏目漱石あたりそうだと思います。
そういった意味では、あえて一つの宗教を選ぶことなく、森田さんや僕に限らず、それぞれの人がそれぞれの手段で、手の届かない何かに少しでも触れてみたい、追求してみたいという思いがやっぱりあるんじゃないのかな。
僕は数学は全然わかりませんけど、森田さんは数学を通して、そういう意味での哲学をやってるんじゃないかなって思いますね。
森田さん、何で数学を選ばれたのですか。というのも、世間のイメージでは先ほどと逆に、目に見える、まさにコンピュータで計算できるようなものが数学だと思われていますよね。
身体で感じていることを、数学者の言葉で語れないだろうか
まず、「なんで数学なのか」については幾つかの理由があるのですが、まず第一の理由としては僕がさっき言ったように、神に対してキリスト教的な世界観を学びつつも、自分の触感としては別の感覚を持っていました。
それと同じような事例として、僕は学生の頃バスケ部に所属していたので、その時はひたすら身体性について学んでいました。一方で、授業という形の学校教育では、いわゆる西洋の数学とか物理学とか、そういった世界のことを教わりました。
それらのつじつまが合わないっていう時に、じゃあそんなキリスト教的世界観はわかりませんとか、物理とか数学なんてわかりませんと言って一方を切り離し、僕のこの身体性だけで考えてみますって言ってしまうと、それは自己満足というか、他人とコミュニケートすることを放棄してしまっていると思うんです。
でも、この世界の中には、そういう数学的な原理を信じている人達が大勢いて、それが世界を実際に今動かしているっていう事実を前にした時に、その数学を使っている彼らの言葉遣いで、自分の身体的な直観を語れないかっていう思いが強く出てきたわけです。つまり、数学っていうのは、記号であり絶対的に強力な言語で、普遍性を持っているからこそ、数学でグローバルにすべてを語ろうと思う人もいるのですが、僕はそうは思わないんです。
例えば、僕が信じていること、僕が今感じていることは多分、ずっとアメリカで育ってきた僕の友達には、環境が違う分、よくわからないと思うんです。だから、同じレベルで納得することは、永遠に無いことになってしまう。でも、その全然違うことを信じている者同士でも、コミュニケートすることが必要な場面は、出てくると思うんです。その時必要になるのが、普遍的な言語だと思います。なぜなら、普遍性を持っている言語っていうのは、理解できないもの達同士をつなげる役割をしてくれると思うからです。つまり、「あなたの言葉で僕が信じていることを語ります」っていうことを、僕はやりたいんです。
それは、アメリカの友達が信じている感覚と、自分の感覚の差異を統合しようということではなくて、僕とあなたは全然違うものを信じているんだけども、僕の信じていることを「あなたの言葉で語りましょう」っていうことをやりたいということです。数学を勉強するっていうことも、根底にはそういう思いがありました。
森田
出口
なるほど。
こないだ浄土真宗の住職であり、相愛大学人文学部教授でもある釈徹宗先生とお話していた中で、面白かった話があるんですよ。
釈先生が宗教会議へ行くと、そこにはイスラム教徒、キリスト教徒、仏教徒など、いろんな宗教の人達がいるんです。そこにいる人達は皆、自分の宗教を信じているから、それを基準に結局は同じことを考えてるよねっていう風な方向に、話を持っていきたいわけですね。そこで、釈先生がご自身の思想をいろいろ話すと、イスラム教徒の人が「あ、そっか。それはイスラム教だ。おまえの言ってることはイスラム教そのものだ。よかった」と言って、釈先生に握手を求めるのだけれど、釈先生ご自身は心の中で「何か変な感じがする…… 」と感じていたらしいです(笑)。
同じことを信じていると共有する必要は無くて、俺らって全然違うことを信じているよねと共感し合う、“共存”っていう方法があると思うんです。だから、僕はアメリカの友達が信じている宗教感覚と自分の感覚との差異を、統合しようっていう風には思わなくて、「僕とあなたは全然違うものを信じているんだけど、僕の信じていることをあなたの言葉で語りましょう」ということをやりたいんです。
例えば、僕は武術家の甲野善紀先生が言っている、身体で感じ取ることができる瞬間があるのですが、身体で感じているんだっていうだけで終わると、コミュニケーションは成り立たないですよね。
森田
出口
そうですね。
身体で感じていることを数学者の言葉、あるいは物理学者の言葉で、語れないだろうかっていうことが、一番最初の数学を始めた大きな動機としてあるのだと思います。
森田
出口
はい。
あと、もう一つの理由として、世界と向き合っていく時にいろんな方法があると思うのです。例えば宗教的な方法だったり、アートによる方法だったり、いろんな方法がある中で、なんで数学なのかというと、僕にとって数学は、最も特別な才能が無くてもできるものという気がしたんです。自分に特別な才能が無いのに「俺、ちょっと音楽家になろうかな」って、なかなか思わないじゃないですか。
でも、数学っていうのは、論理という確実な道具があるので、時間はかかるかもしれないけれど、一生懸命にやれば、どこかまでは行けるという感じがするんですよね。
ニュートンが言っていた言葉に、「人間は大きな海の前で、貝殻を拾っているような存在だ」というものがあります。それに対して岡潔が「じゃあ、その大きな海の方が本質だ」と言ったという、エピソードがあるんです。大きな海に出て行くために、自分の肉体だけで立ち向かえるっていう人はほとんどまれで、最初はボートなどを使いますよね。そのボートに当たるのが論理とか数学で、これは誰もがきちんと一から学んでいくと、確実に少しは前に進める何かなんですよ。音楽っていうのは、才能が無いと一歩も前に進めない感じが僕にはあるのですが、数学っていうのは、僕でも確実に進んで行ける気がしたというのが、僕が数学を選んだもう一つの理由です。
森田
共犯者的なたくらみ
出口
僕は、論理を世に広めていこうとしているのですが、その中でも他者意識、つまり相手に自分のことをわかってもらおうという気持ちを持って、コミュニケートするということについて考えていて……なぜ論理かといったら、人間ってそう簡単にわかり合えないですよね。例えばお互いによく知らない者同士がコミュニケーションする場合、独りよがりな話し方で話しても、理解されません。論理という共通のルールを用いることによってはじめて、きちんとしたコミュニケーションが成り立つし、世界中の人々、さらには過去の人間、未来の人間とさえも、誤解無くコミュニケートできるはずだと考えているからです。
そういったコミュニケーション実現の手段として、僕はまず、文学の中で使われている言葉を学び直し、そこからアプローチしました。僕は文学の中の言葉、つまり日本語など我々がコミュニケーションで使っている言葉を、自然言語と言っています。これには、非常にあいまいさが残るけど、その分、人間的な部分も残っていく。そんな中で論理を形作り、コミュニケーションを図るという方法です。そのツールが、森田さんにとっては数学の言葉だったんじゃないかな、っていう気がしますね。
また、言語の問題としても、数学はやっぱり数式・記号という、われわれの使う自然言語とは違う言葉を使っています。それでそういう見えない真理を語るというのはどういうことなのか、そのあたりをちょっとお聞きしたいのですが。
おそらく数学的な言語よりも、自然言語の論理の方が、実践的で広く使える部分があると思います。数学的な言語っていうのは、論理的に考えることを極端に推し進めていますから。なかなか日常会話で「あ、じゃあこれから僕達は、お互いを信じ合うことにしますから、数学で語りましょう」なんてことはあまりないですよね。
でも、僕がやっている数学はもっと理念的な部分を扱っているんですよ。そして、そういう理念的な部分がものすごく人を動かしているというふうに僕は捉えているんです。
例えば現代では、数学を1回も勉強したことがない人も、「物は、分解していったら要素に分かれる」ということなどを、何の疑いも持たずに、常識として信じるようになってしまっている。これは集合論という数学の概念が、定着したことによる部分が大きいのです。
そういった数学の根本的な発想の影響力って、すごく大きいと思います。だから、世の中を変えようとするなら、例えばカリスマ的なリーダーになって、言葉によって人を変えるとか、政治家になって世の中を動かすという手段がありますが、僕は数学をコツコツとやることが実は一番、世の中を変えることにつながるんじゃないかと思うんです。
僕は、そう考えて数学をやっているのですが、他にもコミュニケーションの手段としていろんなアプローチがあると思います。例えば、僕の先輩の鈴木健さんがやっているPICSY(伝播投資貨幣)という新しい概念を実装し、社会制度を変えることによって世の中を変えるとか、建築を変えることによって世の中を変えるなど、いろんなところを攻めていかなきゃいけない中で、出口さんは自然言語の論理をやって、僕は数学をやっているということですね。
森田
出口
アプローチの方法は異なるけど、目指すところは割と近いでしょうね。僕もそういう意味では、言葉は悪いけど、森田さんには共犯者的な親しみを持っています。この世界をうまく変えてやろうっていう、たくらみがあるというか。
ところで、森田さんの語る数学と、世間一般に認識されている数学とでは、大分違いますよね。
違いますね。
森田
出口
それがまたおもしろい。森田さんにしかできない、新しい数学が出てくるんじゃないかなっていう気がするんですよ。
本当は、語る人によって数学って違うんですよ。音楽が演奏する人によって違う響きを持つように、数学も語る人によって違う姿を見せて当然だと思うんです。岡潔が語る数学があるし、グロタンディークが語る数学もあるわけです。
森田
数学、未知に近づく言語
出口
いずれにせよ、誰もが理解できる言葉で語れるっていうのは、いいですよね。まあもちろん、数学をある程度理解しているということが、前提の話だと思うけど。それでも、数学の言葉でやると、世界中の人が誤解無く理解してくれる。僕は、特に数学における無限の概念が、神の存在や宇宙を語る際に適していると思います。
僕は幼い頃、アメリカにいましたけど、その後日本に移り住むという経緯があったり、バスケが好きだけど同時に、数学的なことが好きだという思いがあったり。一見すると、全然理解し合えないようなコミュニティの中で、そのどちらにも属せないという経験をしてきたので、その両方とコミュニケートしようとした際に、結果としてあらゆる事象に共通している、論理的なことや数学的なことが残ったんです。その経験があったから、数学が好きになっていったっていう面もあるのかな、って思います。
森田
出口
僕は、自然言語を用いた論理を扱っていますが、論理というのは、それぞれの母国語で表現している以上、日本語を使うのか英語を使うのかといった、言葉の問題は生じます。でも、数学は世界共通の記号を使用しているので、その点の心配は無用ですよね。これは、自然言語には無い大きな武器だと思います。
そうですね。自然言語の文法とかって、歴史を背負っているじゃないですか。それまでの時間の記憶が、そこにいろんな制約をかけてしまっていますよね。だから、突飛なことがあまり言えないわけです。自然言語で、いきなりものすごく変なことを言おうとしても、語彙が無かったり文法的におかしかったりという問題が生じると思います。
数学は、そういう意味では、過去からはるかに自由です。だからこそ、宇宙について語ったり、未来について語ったりするのに適していますよね。数学は論理的でありさえすれば、どんなことを語ってもいい。新しい概念や言葉も、自由に創造することができます。だから、数学ではいきなりすごく変なことを言うのも、ありなんです。
森田
出口
まさにその通りだと思います。自然言語の背景に歴史や文化があるという考えには、すごく共感します。
数学とて人間のつくった言葉ですから、歴史と文化から完全に独立というわけではもちろんないわけですが、自然言語に比べると、やはりはるかに解放されている。このことが、数学の自由を支えているのかもしれませんね。
森田
第二部 わかれた世界を繋ぎなおすもの
森田真生が育った環境
出口
今の日本の教育制度では、森田さんのようなアプローチで数学をやる人は生まれにくいと思うのですが、小・中・高の間、算数・数学をどのように勉強されてきたのでしょうか。
アメリカにいた頃は、例えば毎月生徒が先生に代わって授業をする機会を設ける等、先生が工夫をこらした授業を行っていたので面白かったですね。僕もよく、算数の授業をして楽しかった思い出があります。
日本で習う算数はあまり面白いとは感じなかったのですが、勉強はきちんとしていました。実は、僕にとって勉強するということは、掃除することと同じなんです。
日本の宗教、特に神社等では、清めること、つまり掃除ってすごく大事なこととされていますよね。僕は中学生の時、「掃除が大事だ」という哲学を、“雀鬼”桜井章一さんの本で学びました。ここで言う掃除とは、自分の周りの気になるもの・負い目をできるだけ無くし、清めることを指しますが、それが勝機の流れをつかむために必要なんだと。ですから当時の僕は、成績が上がるから、好奇心が満たされるから勉強をするのではなく、自らを清め、良い流れをつかむために勉強していたんです。試験に向けて機械的にきちんと勉強し、最高得点で突破していくことが、僕にとっては、常に机の上をきれいに掃除しているのと同じような感覚だったんです。トイレ掃除をするのと同じような感覚で、機械的な計算をしていましたから、本質的な意味での勉強はあまりしていなかった気がします。
何かの好奇心を満たすため、という本質的な意味での勉強は、むしろバスケを通して行っていたような気がしますね。バスケのプレー中、「生きること」とか「自分が存在していること」、そして「死とどう向き合うか」等についていつも考えていて、それが自分の哲学を作っていったように思います。
森田
出口
以前、ここで対談させて頂いた宮台真司さんや和田秀樹さんも、似たような話をされていました。ものすごく頭の良い人は、つまらない受験勉強を要領よく片づけ、本質的な自分が追求したいことに、時間をあてる傾向があるようですね。
話は少し戻るのですが、アメリカの教育と日本の教育とは、だいぶ違ったんですよね。
先日、たまたま実家で荷物の整理をしていたら、小学四年生の時のディベート資料が出てきて、テーマを見ると「カオスと秩序について」だったんです。小学三、四年の段階で、そのような高度なテーマで議論をしていたんです。
アメリカには二歳から十歳まで住んでいたのですが、向こうの小学校は生徒が授業をしたり、時間割もその日の朝に決まったりと、日本の小学校とはかなり違いましたね。
森田
出口
初等教育はアメリカで受けたわけですね。それだけの期間をアメリカで過ごされたのなら、日本に戻って来た時、かなり違和感を覚えたでしょう。
はい。帰国して日本の小学校で初めて「時間割」の存在を知りました。初めて見た時は間違って横に読んでしまって、一日のスケジュールを国語・体育・国語・体育と解釈し、「うおー、すげえ」って思わず叫びましたね(笑)。
やはりアメリカ人は、発言や自己主張を積極的に行います。でも、日本に帰って来て、発言や自己主張を積極的にしていると、周りから白い目で見られる訳です。そのようにして、「これは許されないことらしい」と、アメリカでの常識が、日本では当たり前ではないことにだんだん気づいていきました。
もちろんバスケのコートに立った時の振る舞いやロジックなど、変わらないこともありましたよ。だけど、表面的な価値観とか美意識については、「人間って結構いい加減なものだなあ」と実感しましたね。
そういえば、アメリカ人はわりと子どものときから大人びているので、日本に戻って来た当初は、周りの同級生がみんな子供っぽく見えたことを覚えています。でも、半年くらい経った頃にはそれが普通になっていき、いいなと思う女の子の基準も変わりましたね(笑)。
森田
生命の中に浮かぶ生物
出口
森田さんはそういう違いを乗り越えて日本の教育に順応し、東大に入った訳ですね。
日本での教育の中で特に印象的だったのは、バスケットボール部での指導ですね。中・高時代、ずっとバスケ部に所属していたのですが、そこで受けた教育が、ものすごくスパルタだったんですよ。
監督は実業団の選手出身で大変に意識が高く、「例えば俺が今針を落としたら、ピンと張りつめた空気の中で、その音が本当に聞こえるような――そんな場を作って練習したい」といつも言っていました。そして実際に、そういう雰囲気の中で行われた練習だったんです。
つまり、試合の勝ち負けうんぬんよりも、そのような空気や場を作っていくことに主眼を置いた指導で、ほとんど修行みたいな感じでした。
僕にとっては、授業で学ぶいわゆる普通の教育よりも、バスケ部の六年間の生活が自分の根底を形作っていった気がします。
「私を超えた何かがある」という感覚も、バスケの経験を通して得られたものだと思うんです。プレー中、本当に流れに乗っている時って、自分という感覚はなくなってしまうんです。マイケル・ジョーダンなんて、「本当に調子が良い時は、自分を超えた知覚が拡張して、コートの真上から全てを見渡しているような感覚になる」ということを言っています。僕はそこまで明瞭に感じたことはないですけれど、試合に没入している時は、「私の身体の中の私」を意識しなくなるんです。そういう感覚はすべて消え、ただ大きな流れだけが存在する、のだと。
文化人類学者の今西錦司は、生命と生物は全く違うものであると述べています。
すべての生物は、親の親をずっとたどっていけば、原初に現れた単細胞生物にたどり着くはずですよね。つまり、「全ては同じ一つの物から分かれてきた」という意味で、生命とは大きな一つのものとも捉えられると思います。
先ほど、「宇宙と神というのは、ほとんど区別がつかないんじゃないか」というお話がありましたが、そういう大きなもののことを“生命性”と呼ぶとすれば、その生命の大きな流れの中に、ポワッポワッと浮かぶ存在――それが“生物”なのだと。その生物にはもちろんそれぞれ命が宿っている。しかし、それらを包含するもっと大きな概念として、すべての源となる“生命性”と言えるものがあるのではないか。つまり、生命(性)と生物とは密接に関係しているんだけど、区別しなきゃいけないという話をしていました。
そういう大きな“生命の流れ”と、それぞれの“命”があるとして、僕のこの生物としての“命”とは、「大きな流れの中のほんの一瞬、僕という小さな器に生命性がとどまってできた存在にすぎない」というような感覚は、実際、バスケをしている時によく感じましたね。
森田
出口
昔の修行がその代表的なものですが、身体を極限まで研ぎ澄ませることにより、身体という狭い枠に閉じ込められていた魂や心がその枠を大きく超え、広がっていく感覚が得られるのかもしれませんね。
仮に生物としての死が、その大きな生命に再び戻って行くことだとすると、「死に方」もきちんと考えないといけないと思うんです。長生きの方法や、死なないための手段は頻繁に研究対象とされますが、「死に方」についても、もっと研究されるべきだと思います。
例えば、日本では火葬しますよね。僕の感覚では、燃やして肉体を消す行為は、何だか消えるのを急いでいる感じがするんです。僕らは、他の生物から命を奪い続けて生きているから、死んだ後ぐらいは、土の中で他の生物に食われ、奪われしながら消えていく方が良い気がするんですけど、それさえしないで燃やして死ぬという選択は、良いことなのかと……。
先ほど言ったように「死」とは生物的な現象にすぎず、生命としては連続しているとすると、その連続していく方法について、もっと真剣に考えないといけないんじゃないかと思うんですよね。
森田
出口
なるほど、昔から「自然に還る」という言い方をしますよね。
肉体を超えたもの
出口
思考や感情のすべてが「単なる脳の働きだ」と言われてしまうと、脳は肉体である以上、まさに死んだら全部が消滅する訳ですが、この点に関して、僕はずっと引っかかっていました。
そこで、「心と魂は違う」と考えれば、割と説明がつくんじゃないかと思ったのです。心とは、「女心と秋の空」という言葉があるように非常に変わりやすいものです。では、心を脳や神経・肉体と強く結びついた存在だと仮定しましょう。すると、肉体が無くなれば心も無くなりますよね。そして、肉体と結びついているからこそ、痛いとか怖いといういろんな感情が生まれやすく、すなわち心は変わりやすいと言える。そのように、心は肉体と非常に強く結びついている存在なのではないでしょうか。
一方、魂は肉体とは離れたところにあるのかもしれない。例えば、職人魂とか大和魂って不変のものですよね。
つまり人間の中には、表面的な肉体とか脳に支配されている心の部分と、肉体を超えた、それに支配されない魂がある。そう考えると、すごく説明しやすくなるんじゃないかなと思うんです。
ラジオを使った面白いメタファーがあります。文明とは無縁の原始的な暮らしをしている部族の前にラジオを置いてみた。すると、その部族は「お、何かこいつしゃべっているよ」と言って、さらにラジオのつまみとかを動かしてみる訳です。当然つまみによって、しゃべったりしゃべらなくなったりしますから、それを見て「すげえ、こいつ」と語り合う。そしてそのラジオに石が当たって壊れると、急に音を出さなくなることをもって、「ああ、死んじゃった」と思ってしまう訳です。
だけど、実際の仕組としては、ラジオはラジオ波を受けて音を出しているだけですよね。つまり、ラジオは音を媒介しているだけで、考える主体ではないわけです。考えている主体はラジオの外にあって、ラジオは肉体にすぎない。
森田
出口
そうですね。それは肉体だね。
ラジオを壊したら音がしなくなる、という現象を通して、「考えているのはこいつ(そのラジオ)だ」と、部族の人は発想するのですが、実は考えている主体は全然違う所にいますから、たとえこのラジオが無くなったとしても、違うラジオで受信できたりする訳です。
僕らは普通、脳が停止したら心も消えるから、脳に心があるという風に考えるわけですけど、ひょっとすると、このラジオの場合のように、心の本体は脳を超えたどこかにあって、それがたまたま脳に現れているだけという可能性もある。少なくとも、脳が停止したら心が消える、というのは、脳に心があるということの証明にはならないわけです。
森田
出口
その通りだと思います。さて、ラジオ波と言えば、科学の進歩の結果、それこそ電波といった目に見えない物でさえも我々は信じられるようになってきたわけですが。
面白いことに、何かを「わかろう」として科学がどんどん進歩していくのに、科学のおかげで僕らの「わからないことに対する想像力」もどんどん膨らんでいますよね。普通の生物は目の前の世界が全てで、自分の知らないことがあるかもしれないなんて思ったりしない訳じゃないですか。
昔の人間の「自分の知らないことがあるかもしれない」ことに対する想像力って、おそらく今よりもずっと小さかったと思うんです。科学のかつてない進歩とともに、「わかっていないこと」に対するリアルな広がりについても、今の僕たちは人類史上最も感じていると言えるのではないのでしょうか。つまり、「自分たちを超えた何か」に対する想像力が、科学という行為のおかげで獲得されているとも言えると思うのです。
森田
人間に託された使命
出口
寺田寅彦が同じようなことを書いていました。科学が進歩して人間がいろんなことがわかってくると、未知の領域はさらに大きくなるものだ。そうやって永遠に広がっていくのだ、と。
そういう意味で科学の進歩というのは、決して宗教と矛盾するものじゃないと僕は思っています。森田さんのお話風に言うと、アリは人間の姿の全体を見ることができないけど、人間はアリの全体像が見える訳です。だから人間よりもっと大きな存在からすると、人間のことは非常に良くわかるだろうし、逆に自分よりもはるかに大きな存在に対しては、人間でも即座にわからない訳です。
そうですね。人間の皮膚細胞のすごく細かいことについて、人間にはわからないが、蚊なら知っている何かがあるかもしれないですね。このように、小さいものにしかわからないこともあると思うのです。
つまり、それぞれの存在が、それぞれの視点で理解できるものしか見えていない訳ですが、それが多分、生物という存在形態の重要なポイントだと思うんです。
先ほどの“生命”の大きな流れの中で生物が発生する、という考え方に立ってみましょう。生命というものはあまねく存在していて、生物とは局所的存在です。だからこそ生物は、自分の周りのことしか知らないわけです。
例えば単細胞生物は自分の周囲の水の流れしか知らない。だけどそのことについてはすごく知っているわけです。海の中に生物が発生することで初めて、局所的な水の流れ等について知る存在が生まれると思うのです。人間も、自分の周りのスケールのことについてはよく知っているけど、それ以外のスケールのことはあまり知りませんよね。
いろんなスケールの生物が誕生することによって、大きな生命の全体が「俺、これについてわかっているよ」「俺は、あれについてわかっているよ」という風に自覚しはじめるのではないでしょうか。
森田
出口
ではその生物の中で、人間とはどういう存在なのでしょう。いろいろな生物の中の一つにすぎないのか、それとも人間だけは他の生物とは全く別の存在なのか。
例えば、単細胞生物は水中で、まわりの環境とつじつまが合うように体内の化学的なバランスを調整し続けています。結果として、周囲の環境に「似て」くる。環境の構造とまったくつじつまの合わない内部を持っていたら生き残れないわけですからね。生物はまるで周囲の環境情報を、自分の体内に「記述」するようにして、周囲の情報を体内に蓄積していきます。
このようにして、周囲の情報を体内に蓄積していくプロセスを広い意味での「記憶」と呼ぶことにすれば、周囲にはない情報をみずから生み出すのが、人間の持つ「想像力」ということができるのではないでしょうか。ただ問題は、この想像力をどこに向けるかということです。想像力を駆使して、他の生物を支配し、制圧していくのではいかにも淋しい。あらゆる「生物」が、一体不可分の「生命」のあらわれだとしたら、局所的な存在として世界中に散らばっている生物と生物のあいだに、新たなコミュニケーションの契機を立ち上げていくことができるのではないか。僕は時折、そんな「想像」をします。
そういう意味で、人間は自然を支配するものでも制御するものでもなくて、自然を「媒介」するもの、わかれた世界を繋ぎなおすものなんじゃないか。それこそが人間の役割なんじゃないか、って僕は思っているのです。
森田