甲野善紀「ほんとうの教育」
はじめに
出口汪と著名人の対談・真剣勝負、第九弾は日本武術を主とした身体技法の研究家、甲野善紀氏との対話です。
身体から考える「ほんとうの教育」をテーマに、全三部構成でトークをしていきます。
この対談は2012年6月19日に行われたものです。(インタビュアー:尹雄大)
第一部 身体と言葉の関係性
技の原理を言葉で整理
今日はお二人の活動を軸に、混迷の世を生きるにあたっての智恵についてうかがいたいと思います。
甲野先生は20代の終わりに、それまで学ばれていた合気道を離れ、武術稽古研究会「松聲館」を立ち上げられましたが、その前に大本を舞台にした小説『大地の母』(出口和明著・毎日新聞社刊)を読まれたそうですね。その縁がこの場の出会いにつながっているのだとしたら、不思議なつながりを感じます。出口さんは甲野先生の活動についてどういう印象をもたれていますか?
尹
出口
甲野先生は、ただ反復するだけの稽古に疑問を感じられたり、また昔の日本人の歩き方“ナンバ歩き”について研究されたりと、誰もが当たり前と思っていた常識を見つめ直し、なおかつ武術を音楽や介護、スポーツといったいろんなジャンルに応用させていらっしゃる。そういった「誰もが常識と思っていることをもう一度考えてみる」姿勢にすごく共鳴しています。
それにしても本を読ませていただいて改めて感じたのですが、身体のことは並列的に表せないので、どうしても文字では表現できないところがありますね。
たとえば、“コトバ”と言えば、「言葉」だと理解できますが、身体で感じたことを表そうとするのは、“コ、ト、バ”と同時に言うようなところがあります。感じたままを言葉にしても必ずしも伝わりません。
そうですね。けれども私にとって言語はすごく重要なのです。身体を通じて気づいた感覚を言葉で整理し、技の原理を作っていくからです。ただ、それはあくまでも仮の形であって、それをまた次にどう解体できるかが重要になってきます。
甲野
出口
いったん言葉にして定着させるとその枠でものを捉えてしまいがちですが、自然あるいは身体は複雑すぎて、言葉では捉え切れない。その辺りの先生の著書の展開をおもしろいと感じました。
聴覚は時系列ですが、視覚は同時並列的にものを捉えている。そのふたつを人間はどう融合して使っているのか。考えてみると謎ですよね。
甲野
出口
そうですよね。
甲野先生は、技の原理を説明する言葉をつくった上で、なおかつそれを解体されるということですが、いわば自己否定の連続ですよね。習熟というと「気づいたことをどれだけ強く記憶するか」だと考えられているわけですが、先生の試みは真逆です。
尹
それは技の質をどんどん変えていきたいからです。先日、風邪をひいた上に気持ちもすごく落ちていたのですが、そんな中でも振り返ってもこれほどの気づきはないんじゃないか?と思うほどの発見があり、技が大きく変わりました。
どういうことかと言うとまだ説明がうまくできませんが、要するに膝と上腕とのある種の連動なのです。「あれ?これはひょっとして膝が上腕を迎えにいく感じなのかな」と思い試してみたら、もう全然違ったのです。
甲野
出口
どれくらい違うものですか?
まだ十分に気づいてはいない段階ですら、十両の力士をどっと崩すことができました。この力士からは“おっつけ”と言って、相手の差し手の肘を外側から押しあげる技をかけてもらった上でのことなのですが、このおっつけは、相撲の世界では、たとえ相手が格上であっても、いいポジションで食らいつけば、そうそう崩されないと言われています。
ところが、体重60キロそこそこの私が140キロはある力士が十分な体勢に入ったところを崩すことが出来たのです。その後、「膝が迎えに行く」という感覚に、ある気づきを得たところ、それまでの技が旧式に思えるくらい利きが変わりました。
膝と上腕の連係といっても、これは物理的になかなか説明できません。ただ感覚で結びつけておくと、すごく安心できる。なんというか「行けるぞ」という感じがあります。
私が言葉で技を整理しておく必要を感じるのは、言葉で整理しておけば、次に気づきがあったときに、その新しい展開について厚味を持って考えることができるからです。ある程度でも自分なりの言葉で何が起きているかを説明しておけば、いろんな場面での応用が利くんです。
甲野
発想の転換における言葉の役割
これまでの相撲の原理、つまり相撲の技を説明する言葉ではない言葉を手がかりに感覚を統御したところ、普通はありえないとされている力を発揮したわけですか?
尹
まあ、そういうことになるのでしょうか。しかし、携帯電話なんか昔からすればありえないものですよね。でも、そういうありえなかったはずのものが現代ではどんどん発明されているわけです。だったら、身体の使い方も普通の常識ではありえないこともやり方によってはできてもおかしくないはずです。
ところがいまのスポーツ的なトレーニングでは「そんなことはありえない」ことが常識になってしまっています。
甲野
出口
先生の技を相撲取りや柔道選手が覚えたらすごいですよね。
まあ、そうかもしれませんが、なかなかそうなりませんね。やはり現代の選手は筋肉を鍛えてトレーニングするという発想から離れられない。それはいわば通信に有線しかないと思い込んでいる状態で、無線の存在に気付けないようなものです。「そんなことはありえない」という思いからの脱却には、よほどの発想の転換が必要でしょうね。
甲野
発想の転換にはやはり言葉は重要です。柔道家なり相撲取りは、言葉の運用そのものを変えていかないと、新しい身体の運用にいつまで経っても気づけないということでしょうか?
尹
そうですね。言葉の理解力について言えば、柔道の選手に技の説明をしたとき、「何で理解しないのかな」とは、よく思います。
たとえば背負い投げに対する私のやり方は、相手の技に2割くらい掛かっておきながら、フッと空中で動くというものです。すると相手はものすごく崩れるんです。
私はこれを「迷惑な荷物手伝い」と表現しています。荷物を背負おうと思ったときに、「重そうだから手伝ってあげるよ」と横からひょいと持つ。すると楽になるじゃないですか。そこで「やっぱり重いから止めた」とパッと放したら、どこにその荷物の重さがかかってくるかわかりませんから相手はどうしても体勢を崩してしまう。ものすごく迷惑ですよね。
柔道を専門にやっていない一般の人は、この説明に「なるほど」と頷くのですが、柔道の選手はなかなか理解できないようです。
おそらくは、今まで経験したことのない感覚を体験するので訳が分からなくなっているから、いくら説明しても耳に入らない。つまり理解するモードになっていないのでしょう。
甲野
出口
なるほど。思考停止状態になっているわけですね。
ただ、私の武術の技に興味のある一般の人達は、私の言うことが常識と違えば違うほど面白がってくれるのです。でも、プロの選手は不安になるんですよね。今まで知っていた常識とあまりにも私の言うことがかけ離れているので。一流のスポーツ選手はある意味ですごく臆病だと感じます。
甲野
出口
自分が信じていままでやって来たことを変えるのは、やはり怖いでしょう。
「継続は力なり」に甘んじるな
出口
先ほど体調が悪いときに気づきがあったとお話でしたが、それは寝込んでいるときにフッと頭の中で浮かんだのですか。それとも実際に稽古をしていてのことでしょうか?
稽古しているときでした。
甲野
出口
よく「3日も現場を離れると、勘が戻るのに何日もかかる」などと言われますが、それについてはどう思われますか?
「そうだろうな」と思う一方、離れているから、逆に今までの感覚の延長線上ではなく、新しい気づきが得られるとも思います。リセットするいいチャンスではないでしょうか。
つまり、毎日稽古しているとつい前日の感覚の上をなぞっていて、昨日の続きを今日もやるという感じになりますから。何日か離れて現場に戻ったときに、それまで自動的に追いかけていたものから離れていたお陰で何か違うところからものが見えるようになります。
「継続は力なり」は嘘ではないけれど、ただひたすら毎日やっていたら、発想の飛躍や転換は起こりにくいのではないでしょうか。
私はいまの技を絶えず否定しようと思っていますが、いきなりすべてを否定しても飛躍や転換にならないので、やはりいまできることをやるしかない。
ただ、昨日の続きから少し離れたときに、「あれ?」というような感覚の新しさ、違う芽が出て来るのを感じたりします。その芽を育てると、意外な気づきなり新しい展開がありますね。
甲野
出口
「継続は力なり」について思うことがあります。僕の仕事は、「論理的に考え、書くとはどういうことか」について伝えることですが、論理に精通するために、まずはひとつひとつの言葉の使い方を意識しなければいけません。いわば言葉を分解していくわけですが、そうしてひとつひとつの言葉を理解した後に、さらに統合していく必要があります。生きた文章を理解するには、個々の言葉を知ればいいというような単純な話ではありませんから。
「言葉のひとつひとつを意識して」というと、ひたすらそれだけにかかりきりになるといったことも起きがちですが、ただ繰り返せば論理を学べるかというとそういうことはないわけです。ただ継続すればいいわけではないのです。だからといってセンスに任せているだけでは、単なる独り善がりな理解にしかなりません。
総合的に理解していく。それが習熟だと思いますが、いまの教育は、どうしても「覚えた・わかった」でおしまいになりがちです。でも、覚えてわかったところで、できるかどうかは別の話です。
「Aがわかった。Bがわかった。Cがわかった」で終わらせるのではなく、ABCのそれぞれをわかったならば、それを使って次の新しい段階にどう進むかが大事です。
文章を論理的に読め、論理的に思考を整理でき、論理的に話すことができる。さらに論理的に文章を書く。これらが一体化していないといけませんが、日本の教育には、そういう統合の発想が乏しいのです。
だから「継続は力なり」を強調したところで、実際に使えないと話にならないわけで、それだけに先生のおっしゃっていることに共感します。
第二部 常識を疑え
思考停止に誘う「科学的」という言葉
出口
よく子供たちに、「考える力をつけろ」と言いますよね。でも、「考えるとは何か」については、誰も教えない。
論理的に考えるとは、言葉の規則に従ってものを考えるということですが、言葉の規則も教えずに、「さあ、考えなさい」と言ったところで、何を考えていいかわからない。考えているつもりでも妄想でしかない。
本当に身につくには、ひとつひとつの言葉に習熟して、さらにもっと深いレベルへ持っていかないといけないと思っています。
いまのお話をうかがっていて、私はすごく論理的に考えていたんだなということがよくわかりました。
たとえば、いまのスポーツトレーニングでは、ウエイトトレーニングなどで筋肉を部分的に鍛えることを良しとしています。けれども部分に筋肉がつくのは、部分に負荷を掛けるからこそ起きるのです。
いいパフォーマンスは、全身を協調させて生まれるわけですが、それとは正反対の部分に負荷を掛けるという、下手な身体の使い方をしておきながら、パフォーマンスを上げようとするのは、論理的に考えておかしいですよね。うまくなるはずがないことをやって上達しようとしているのですから。
甲野
出口
なぜまったく論理を欠いている取り組みを疑わないのでしょう?
そのトレーニング方法が「科学的だ」といわれると思考がそれ以上、働かなくなるんじゃないでしょうか。
甲野
出口
確かに日本人が「科学的」というときは、論理によってもたらされたものじゃなく、「科学者が言うから科学的なんだ」という理解の仕方ですよね。
ええ、だから科学者の感情論も科学的な見解に数えられてしまいます。本当におかしな話がたくさんあります。
私は介護の現場で働く人とも関わりあるのですが、あるテレビ局のディレクターが寝た人を起こしたり、座っている人を抱え上げたりといった私の技の説明に対して、大学の先生のコメントがついたことで、「ああ、これでやっと科学的解明ができた」と安心したように言ったのです。そのとき、「もう本当にどういう頭の構造をしているんだ」と思いましたね。つまり、科学者がコメントすれば、それが本当につまらない、少し頭のまわる人ならどう考えても的外れに思える解説でも、科学的説明になるというのですから。
甲野
出口
科学以前、論理以前の問題がいろんなところで見られますね。たとえば検察だってそうです。「こいつは悪いことをしたに違いない」と決めつけて、無理やりにでも証拠をつくって起訴しようとする。
論理に矛盾があっても強引に無視する。そんなひどい状況が、いまの時代にはいろいろあるように思います。
甲野
洗顔に準備運動はいらない
出口
先生の本で面白いと思ったエピソードがいくつもありますが、そのうちのひとつを言うと、スポーツ選手はまず準備運動をしてから試合に臨む。それがいまの常識だし、練習の基礎となっている考えですよね。
ところが武術の実際で言えば、そんなことをしていたら斬られると書かれている。つまり、武術からすれば、準備運動自体が非常識です。そうなると昔の稽古は、いまと違って、単純な反復練習ではなかったのでしょうね。
西洋のダンサーを対象にワークショップをやったとき、彼らがいちばん驚いていたのは、私が準備運動をしなかったことでした。「準備運動もしないで急にさまざまに動いて、どうして身体が壊れないんだ?」と不思議がっていました。
ですから、その時は「皆さん朝起きて準備運動してから顔を洗ったりしないでしょう?身体を動かすというのは洗顔と同じです」と答えました。
私の動きは全体が結果として動いているから局部に負担を掛けない。だから急に動いても壊れることはないのです。それにしても準備運動やストレッチには問題が多いと感じています。
甲野
出口
どういうところが問題なんですか?
動きというのは、ある種の身体の記憶です。だから下手に身体を伸ばしたりすると記憶をめちゃくちゃにしてしまう可能性があるのです。だから準備運動をするのであれば、自分のやりたい技の動きを緩やかな形で行うほうがずっといいと思いますよ。
私の知り合いのスポーツのトレーナーが、準備運動をしない状態と入念にストレッチしてからのゴルフのスウィングを計測したところ、後者の方がスピードが落ちていたそうです。この違いは、身体の統合性をストレッチによって失ったからではないかと考えられます。
甲野
出口
そう言えば、日本の野球選手は試合前に投げ込みをしますが、メジャーリーグではあまりしないそうですよ。僕らが常識と思っていることの多くは、案外怪しいものですね。
常識と言えば、火傷をしたときに「水で冷やせ」と言いますよね。けれども、風呂の温度よりやや熱いぐらいの湯に浸けた方が治りが早いんですよ。
以前、食事に行った際、鉄板焼きの鉄板に触れて火傷をしたので、「これはちょうどいい機会だ」と思って、土瓶に入った熱いほうじ茶に指を浸けてみました。ものすごくジンジンしたのですが、その後、夜になってふと気づけば、「そういえば今日の昼間火傷したな」くらいのもので水ぶくれにもなりませんでした。ただその部分の皮膚が少し鈍く感じられただけで1週間ぐらいすれば、皮が剥けて痕も残らなかった。
皮膚はすごく暗示を受けやすいので、熱い湯に漬けるという療法は、ある種のホメオパシー的な方法というか、「火傷した」という不安な記憶を消すようなものではないかと思います。
甲野
暗示における言葉の効用
暗示を受けやすいとは、言葉の影響を受けやすいということですが、そういう意味合いでの言葉の使い方は、学校や家庭でも教わる機会は少ないと思います。先生はどういう体験の中で、そのような言葉の作用について知ったのでしょう?
尹
整体協会との出会いでしょうね。創設者の野口晴哉という人物は、すごく巧みに言葉も使うことが出来た方で、たとえば立派な髭を生やしていた人に、「あの髭を剃らせてみよう」とある人に言って、その髭を生やした人に向かって「立派な髭ですね。でも、味噌汁を飲むとき邪魔になりませんか」と言葉をかけたそうです。するとその言葉が相手にパッと入ってしまった。そうしたらその言われた人は、もう味噌汁を飲むたびに気になってしょうがなくなり、とうとうその人は髭を剃ったそうです。
同じ言葉を他の人が言ったところで剃ることはなかったでしょうが、野口晴哉という人物は人がどうしても気になるような角度で言うことができた。それはおそらくその人がとても気になるような形で身体の感覚を移し入れたんだと思います。
甲野
そういうエピソードは、出口王仁三郎にもいろいろありそうですよね。
尹
私が王仁三郎の伝記的な小説である『大地の母』(毎日新聞社・みいづ舎刊)を読んでとても印象深いと感じたのはいくつもありますが、ひとつ例をあげるなら、後に最高幹部になる梅田信之のところに王仁三郎がやって来て、妻の梅田安子が「ありがたい話でもしてもらえたら」と思っていたのに、バカ話ばかりするわけですね。
それで梅田安子は帰る王仁三郎を見送る際に、「なんで神様の話、しとくれやしまへんのどす」と言ったら、王仁三郎は「あれでええのや。時節がくると梅田はんは、わしの手紙一本ですぐ飛んできよる。けどなあお安さん、梅田はんが神さまのほう向いたら、お前らの信仰など足元へも寄れんで。そうならんようにあんたも身魂磨いとけよ」と言ったというあの場面です。
後で手紙が来て、そこには「春の大祭があるから来たらどうか」しか書いていないけれど、梅田信之は「お前と一緒に綾部へ行くのや。この手紙、ぐんと気に入った」と言い、妻の安子と初めて参綾(さんりょう・綾部の大本教に参拝すること)するという運びになった。
そしてその後の梅田の信仰の燃え上がり方は凄まじいですよね。
最初梅田は、王仁三郎が「祓いたまえ、清めたまえ」とか言いながら金をむしり取るんじゃないかと思って警戒していたようですが、腹を抱えて笑うような失敗談のバカ話ばかりして、あっさり帰って行く。あのへんの人心のつかみ方っていうのは、見事ですよね。
甲野
出口
そうですね。『大地の母』を久しぶりに全部読み直してみたんですが、以前と違った印象をもちました。特に後半は王仁三郎というよりも、王仁三郎の周りに集まってくる人たちが半ば主人公みたいな感じがしました。
非常に怖いし、面白いと思ったのは、熱心に信仰すればするほど、どんどんおかしなことになる人が増えていくところです。
第三部 切実な思いから学び、生きる時代の到来
出口王仁三郎とは何者か
私が初めて『大地の母を』読んだのは11巻でしたが、本当にえらい目に遭った人の話がいろいろ出てきました。ロシアのバルチック艦隊の撃滅に最も貢献したといわれた海軍中将の秋山真之も出てきて東京大震災を予言して大変なことになりますね。
それに大本の布教師として一時活躍しながら、自殺する者、背教者として教団を出て行く者たち、小沢惣祐や宇佐美武吉、飯森正芳、宮飼正慶などの屈折した内面心理が詳細に描かれています。あのお父様の和明先生の筆力は凄いですね。読んでいて「これは教団の内部告発の小説かな」と思いながら、どんどん引き込まれて行きました。
甲野
出口
信仰の面からすれば、すごくマイナスのことを書いてあります。だから狂信の怖さを読んでいてすごく感じました。大抵は「自分の信じる神は正しい。だから自分のやることは正義だ」と思い込む。それでむちゃくちゃなことをやっていくわけですが。
その辺りを『大地の母』は隠さずストレートに書いていて、のめり込んでとんでもない方向に行くような人を描きながら、その人たちのことを「バカだな」で済ませずに、「さもありなん」と思わせるところがあります。だからこそ全体が客観的に見えてくる。
甲野
出口
おかしくなっていく人に非常に共感できるので、「人間とは何か」について本当に考えさせられますね。
そうなんですよね。新宗教について知るには、他のどんな参考書や研究書よりも『大地の母』を読むのが一番良いと思っています。多分私は『大地の母』のセールスマンとしては相当売ったのではないかと思います(笑)。あれを読んでいたらオウム真理教に集った人達もあんな事件を起こさずに済んだのではないでしょうか。
甲野
先生が武術を志したのは、人間とは何か。運命とは何かという本質的な問いから始まったと聞いています。そうした問いを抱えていた若い頃に『大地の母』を読まれたわけですが、王仁三郎とは何者だろうと思いましたか?
尹
やはり使命を背負った人だったと思います。何より驚いたのは、やがて自分を裏切るだろうとわかっていながらも、自分の所に集ってきたそういう人たちにものすごい権力を与えて、どんどんその人達のやりたいようにやらせたことです。
つまり、自分が見た自分の役目を果たすシナリオに向かって驀進していくと同時に、王仁三郎はそれを回避しようとすることも一緒にやるわけでしょう。
まあ、それが成就しないこともわかっていたのかもしれませんが、それでもあの情熱で多くの人達を引っ張って行くのは本当に凄いですね。
甲野
自ら弾圧へと突き進む
出口
若いときに高熊山で修行した際、「神からその先まで全部見せられた」と王仁三郎は書いています。おそらく神に見せられたシナリオに向かって生きていた感覚があった。
そのときに自分を慕って信じてくれている人が最後におかしくなっていくのも、すでにわかっていたのかもしれないです。
大本は2度の弾圧を受け、特に2回目のときには、かなりの人間が殺され、投獄されました。自殺したり発狂した人もいます。王仁三郎の身内であり家族、最も愛する人、自分を信じている人ほど過酷な目に遭う。その顛末を知っていながら弾圧を受ける方向へと布石を打っていった。この精神構造は、普通の人間には考えられませんよね。
そこですね、出口王仁三郎という人がすさまじいと思うのは。あれはとても常人の神経では持たないでしょう。
甲野
出口
王仁三郎の当時のいろんな言動を読むと、途中までは天皇や戦争を賛美したふりをしています。そこだけを学者は取り上げて批判するのですが、実は途中からは、「こんなことを書いたら絶対に弾圧されるに決まっている」というような内容をどんどん発表しています。そのあたりのタイミングの見極めも、王仁三郎の中にシナリオがあったからこそではないでしょうか。
要するに早く捕まっても、遅く捕まってもいけない。「ここぞ」という時に弾圧されるように仕向けた。彼は自らの殉教者としての役目を知っていた気がします。
そうですね。大本が弾圧されることで日本という国が救われるということに確信があったのではないでしょうか。だからこそ日本は戦争に負けはしても、完全にひどい状態にならないで済んだ。私はどうも、そういう感じがしています。日本全体を救う大義のために、自分たちが、自分の身内も含めて犠牲になろうという考えがあった気がします。
甲野
すべては身体を使って行っている
出口
王仁三郎は「天地経綸の主体」といって、人間の役割を明確に打ち出しています。この考え方は、甲野先生の身体論につながるのではないかと思っています。
どういうことかと言いますと、もし神がいると仮定したとき、神はこの宇宙を造ったわけですから、全知全能ですよね。だったら「なぜ悪人を作ったんだ」という人もいますが、そういう考えに対し、王仁三郎はこういう考え方をしています。「神は、カップひとつ動かすことができない」。
神は形のない存在です。この三次元の世界の中では、人間が神の代わりにカップを持ち上げない限り、カップは動かない。だからこの天地経綸の主体は人間であって、神に代わって人間が理想の世界をつくる役割を担っているという考え方はすごくおもしろい。
そういう意味では、人間にとっての身体はすごく重要ですよね。現世の中で身体を持って生まれてきたのは、まさに身体を持たない神に代わって、この世を何とかしなきゃいけなくて、そのために身体を与えられた。そうだとしたら、僕らは身体を粗末にしすぎたんじゃないかなという気もします。もっと身体について知るべきではないかと思います。
マサチューセッツ工科大学のロドニー・ブルックスという教授が、「人工知能も身体が必要だ」と言ったそうですが、これは人間には身体があるから、できることとできないことがおのずから決まるということでしょう。
これが頭の論理だけで詰めていった場合は「これもできない。あれもできない」と書きだしていけば膨大な量になって、なおかつそれでも十分な説明にはならない恐れがある。
ところが身体ひとつあれば、できることとできないことは否応なく決定されてしまうわけです。
やはり人間のやることは身体抜きではありえない。それが音楽であれ運動であれ、パソコンの操作だって身体を使っているわけです。
けれども、この「すべては身体を使って行なっている」という視点が、いまの教育には根本的に欠けています。
甲野
出口
絵画だろうがスポーツであろうが、文化系と体育系の区別ではなく、「身体を使っている」という共通のカテゴリーの中で捉えたほうがいいのかもしれないですね。
甲野流教育論、出口流教育論
私の持論は、少なくとも小学校の段階は、国語と体育と歴史があればいいというものです。算数や理科を歴史の括りに入れて、その中で身体を通して必然性をもって学べば、年号の暗記に終始することはないはずで、体育で体験しながらやってみたら、より印象深い学びが実感されるでしょう。
つまり指を使って計算していたところから数字を発明したことによって何が変わったのか。それこそ体育で教えれば、子供も自発的に算数に興味をもつでしょう。
幼いときは誰しも好奇心の塊だったはずで、それに沿うような形で、身体を通して国語なり歴史、体育を教えれば、特定の科目を極端に嫌いになるといったことはなくなるんじゃないでしょうか。
甲野
出口
もし僕が文科大臣ならば、言語の習得という根本に目を向けさせたいですね。英語も数学もそれらを十分に理解するには、まず下地となる言語の習得が必要です。
数学ならば数学を成り立たせている言語を習得しない限り、数学に習熟することはできないはずです。
言語の習得を身体を使って学んでいくことも必要でしょうね。押しつけではなく、子供たちに刺激を与えて考えさせる。とにかくいまの知の枠組みそのものをいったん解体しないと、本当の教育はできないなと思っています。
いま子供たちの数学の力が落ちていると言われていますが、だからといって「数学に集中的に取り組みましょう」で解決できる話ではないだろうと思います。数学は様々な論理構造を考える上でも重要で、つまりは全体的にものを考える力が欠かせないわけです。
甲野
学習意欲を生み出す”必然性”
数学に限らず、特定の科目のカリキュラムを強化すれば能力が向上するわけではない。これは冒頭のトレーニングの話にもつながります。全体的に考える力がやはり重要だと思います。
尹
さらに言えば、原発の問題やいろんな社会矛盾、環境問題がある中で、「これからどういうふうに生きていけばいいのか」という問題を子供たちだけでなく、あらゆる人に考えてもらう必要があります。
時代の風を受け、もっと切実感を持って学ぶ。教育の本来はそういうものじゃないでしょうか。
甲野
出口
すべてがひとつの知識、情報として分断されていて、しかもひとりひとり成長の度合いが違うのに、「中学1年生の1学期はこれをやりなさい」と決めていく。これは本当の教育じゃありませんね。
大事なのは、とにかく学ぼうという意欲をどうやって作るかということでしょう。だから教える教師と学ぶ意欲を持たせる教師とは、別々に設けたほうがいいと思います。
甲野
出口
それに加えて、“いま”を認識することが大事じゃないかと思います。子供たちは“いまここ”に生きているわけで、しかもこれからの時代を生きていかなくてはならない。
原発の問題がある。どうしたらいいのか。年金や税の問題もある。真剣に考えないとこの先に生きていけないような危機的な状況の"いま"があって、それについてみんなで考えていくしかない。答えのないことをみんなで考えていくことによって、考える力も身につくし、「だから学ばなきゃダメなんだ」という学習意欲もわいてくると思うんです。
やはり必然性が学習意欲を生み出すのだと思います。現実に考えなきゃならない問題が山のようにある。それが現状なのですから、「君たちにも考えてもらわなきゃどうしようもないんだよ」という形で、子供達にも切実感を持たせて巻き込んで一緒にやっていくことが大切でしょう。
甲野
出口
それはいい案ですね。
必然性を感じたときの人の習得能力は驚異的ですからね。
甲野
出口
そうですね。特に3.11以降、やっぱり“いま”を考えることは、同時にこれからの時代を考えることでもあるし、そうでないと生きていけない。けれども、現状の学校教育はそういった切実さ、必然性を感じていない。
いま起きていることを自分の切実な問題として考えていく。やはり、こういう態度を身につけることが教育ではないかと思います。
甲野
出口
そして、考えるためには、論理的にものを考える力やその土台になる身体や感性がないと考えることすらできない。だから権威のある人に言われたら、何も考えず思考停止状態となり、支持してしまう。
それにしても、お話をうかがって身体とはおもしろいものだと感じました。この現実は、身体中心の世界で、やはり身体があるから死があり、病があるわけですよね。身体があるからこそ死を意識し、青春が輝いてもくるわけです。
身体がある。だから生きようとする。よく考えようとする。いろんな欲望が身体と対峙していく場がこの世界である。そういう意味では、身体について考えることは、改めて重要なことだと思いました。
本日はありがとうございました。
尹