宮台真司「3.11、そして宮台的革命論」
はじめに
出口汪と著名人の対談・真剣勝負、第八弾は社会学者の宮台真司氏との対話です。
それぞれの生い立ちの回顧から3.11を受けて考えることなど、対話を五部構成で公開していきます。
この対談は2012年5月17日に行われたものです。
第一部 アドレッセンス回顧
宮台流受験術
出口さんと僕はほぼ同世代ですが、昭和30年代から40年代初め頃までは、理系志望が当たり前でしたよね。文系に行くって言うと、「そんな非生産的なところへ行ってどうするんだ」「社会のために貢献しようと思わないのか」なんて言われるのが一般的でした。
宮台
出口
たしかに、勉強ができる子は理系に行くイメージがありましたね。
祖父が昭和天皇に生物学を御進講申し上げる立場だったりして、理系で成功してきた家系でしたから、うちは尚更その傾向が強かったのです。僕が理系から文転したとき、父親に「じゃあ、法律家になるのか」と聞かれて「映画監督になる」と言ったら、頭を叩かれました。「じゃあもういいや」と思って、高3で学業を放棄したんです。
それで浪人することになって駿台高等予備校に入ったのですが、高3最後の1月模試で38だった世界史の偏差値を、3ヶ月後の4月模試では72まで上げました。以降、そのノウハウを使ったところ、駿台の全国模試の全てで成績優秀者ランキング入りしました。全国模試総合1位を取ったこともあります。
宮台
出口
すごい。どんなノウハウですか。この対談を読んでいる受験生はかなり気になると思いますよ。
僕は飽きっぽくて集中力が続かなくなる性質なので、1科目10分間で区切ることにしたんです。東大は5教科7科目だから、デスクに7冊の問題集を置き、タイマーをセットして、最初の科目は10分経ったら必ずやめて、次も10分、次も10分……と、短冊式に何度もぐるぐる回る。同じ科目を約1時間に1度必ずやるわけです。
宮台
出口
なるほど、僕も「飽きっぽい」のには身に覚えがあります(笑)。逆に宮台さんは、すごい集中力の持ち主だと思いますよ。10分間集中して、区切りを付けて、また集中して一通り勉強して、1周して……。瞬発力のような集中力があるからできることですよね。
中学で出会った幾何学の先生がこう言いました。「君たちは、数学は思考力だと思っていよう。それは勘違いだ。受験数学は数学全体の0.1%にすぎない。問題を解くだけなら暗記で十分。中学生ごときが考えるなど百年早い。問題集を使え。問題を見て10秒考えて分からなかったらすぐ答案を見て問題と解答の結びつきのパターンを暗記せよ」と。
宮台
出口
面白いですね。というのも、いま水王舎で出している石井貴士さんの『1分間数学I・A180』が、まさに同じ方法論なんですよ。宮台さんの恩師がおっしゃった通り、思考するのではなく、180問の必須問題を合理的にパターン暗記することにより、問題を見た瞬間に解法イメージが思い浮かぶようにする参考書なんです。これこそ、最も効率のよい受験数学の勉強法だと考えて作られたんですね。著者の石井さんもこの方法で、数学の偏差値を3ヶ月で30から70に上げたそうです。実際、読者からの反響も大きいですよ。
僕は、受験において記憶が大切なのは数学であって、現代文こそ自分の頭で考えなければならない科目のような気がしますね。
そう。僕は駿台では国語の成績が良く、何度か全国一番を取りました。でも、Z会の受験科クラスは難しく感じました。添削で「駿台で1番でもZ会ではダメ」って書かれたことがあります。君はパターン認識で解こうとしているが、Z会はそういう問題じゃない。東大程度はパターン認識で行けるが、Z会は東大よりも上を目指す、と。
出口さんのおっしゃる「現代文はパターンプラクティスの向こう側にある」というのは、Z会の添削者が残したメッセージと同じです。パターンで解ける部分は、数学でも国語でも入口。でも、大学受験レベルだとそれで解けることが多いのは事実です。最終的にはZ会受験科の国語でも十位以内に入れるようになりましたが。
宮台
出口
僕から見たら東大の現代文の入試問題はすごく簡単です。与えられた文章を理解したかどうかを書かされるだけですから。しかし、実際に東大に合格する生徒の答案を見ると、まともな日本語が全然書けていません。小論文はもっとひどい。
日本の教育には、教えられる内容から教え方に至るまで、日本社会のあり方と結びつく形で典型的な欠点があるのです。例えば「国語」は、1952年の文部省仮検定教科書終了までは「言語」と「文学」に分かれていました。「文学」が現在の「国語」。「言語」が今で言うメディア・リテラシーの訓練です。
具体的には、(理解を超えて)表現の手法を教えるのはもちろん、理解についても、たとえば相手がどんな利害相反問題を抱えるのかを相手の属性から想像させた上で、どのように割り引いて聞かなければいけないかを議論する、といった実践を推奨していたんです。
ところが、冷戦体制の深刻化を背景としたGHQの方針変更により、「言語」が廃止されて、サンフランシスコ講和条約発効以降の本検定教科書は「文学」アラタメ「国語」だけになりました。「社会的文脈を読み解く力」と「それを踏まえて説得する力」の訓練をやめて、国語を古典的文学の鑑賞科目にしたわけです。
そこには「正しい読み方」があるという話になって、単なるパターン認識の暗記科目になりました。これならば、ヘタに考えずにパターン認識を鍛えることで、簡単に総合模試で一番がとれます。お分かりのように、オカミにとって統治しやすい人材を養成する方向に、政治的に誘導されたのです。
むろん暗記は極めて大切です。でもそれは、幾何学の先生が言ったように、余計なことに思考の時間を取られないようにするためです。つまり、暗記でカバーできるところは出来るだけ短時間で暗記して、その先にある本当に重要な思考に時間を使いたいからです。
僕は、予備校時代も自宅では1日4時間以上は勉強しないと決めて、1か月に30本以上の映画を見ていました。それでも偏差値70台を問題なくキープできました。10分単位のローテーションで集中力を持続すれば、受験程度のことは暗記だけでクリアできるからです。
パターンを暗記すれば済むことをいちいち考えるように誘導されるということは、別の大切なことを考えることを妨げられていることと同じです。僕は中1の頃から革命家になることが目的だったから、そのために必要な思考にどれだけ時間を使うかが「社会との勝負」だと思っていて、映画もそのつもりで見ていました。
そんな僕にとって、「他の受験生との勝負」などは「社会との勝負」から注意をそらすための目くらましにすぎないと感じられました。だから予備校時代でも、月に映画を30本は見ていました。池袋にあった文芸座と文芸地下劇場で、毎週土曜にオールナイトを見ると、そのぐらいのペースになるんです。
宮台
出口
日本の教育では、教える側にも、教えられる側にも「言語とは何か」という問題意識すらほとんど無いでしょう。先ほど数学は記憶で解くという話がありましたが、つまり受験数学というのは、数学の最も基本的な言語を暗記した上でそれを扱えるかどうか、習得したかどうかをみるレベルです。その次に何かを考えていこう、何かをやろうというのが学問なので、受験勉強は本当に入口の扉の前に立つまでの内容にすぎないということになりますね。
祭としてのアングラ
出口
ところでかく言う僕たちは京都出身で、子どもの頃は受験がありませんでしたね。さきほど「革命家になりたかった」というお話が出ましたが、それはいつ頃からですか。
中学に入った頃からですね。僕は嵐山と山科で育ったのですが、小学校6年生の9月に東京の三鷹に引っ越しました。東京に来たら突然「成績が良いから受験しろ」って言われて、訳もわからず日曜日に四谷大塚と日本進学教室に行かされました。それで何もわからないうちに、気がつくと麻布に入ったわけです。
僕は京都で育ったせいか、お祭りが大好きでした。東京に引っ越して困ったのは、大きなお祭りが無いこと。それだけじゃない。京都にいた頃は、東西南北という方角に「色」が付いていました。北の安祥寺池は自殺の名所、東の白岩は子供が殺される場所、といった具合に。むろん本当かどうかはわかりません。
それが東京に来たら方角に全然色が無くて、なんだかすごく混乱しました。こんなつまらない平坦なところに長く住んだらどうなるのだろうと思いました。
ところが麻布中学に入ったら、中学・高校紛争の真っ只中。機動隊の装甲車が校門をロックアウトしていて中に入れず、公園で野球しているだけで英語の成績がついたり。――まさに「祭り」なんですよね。しかもアングラ劇団、アングラ映画、フリー・ジャズなどについて教えてくれる先輩たちがいっぱいいて、芝居や映画に連れて行ってもらったり、ジャズ喫茶に行ったりしていました。今から振り返ると、夢のような「祭りの毎日」でした。
宮台
出口
なるほど。京都の祭りじゃないけど、ある意味で凝り固まった秩序に対する混沌というか、非日常世界に漂う独特の熱気に身を晒すような感覚でしょう。
ええ。まさに僕にとっては、中学で接した紛争時代のアンダーグラウンドカルチャーが、京都で経験した祭りの代替物だったんです。だからどっぷりはまってしまった。
アングラには柱が2つあって、1つは、マルクス主義革命、つまり反資本ですが、もう1つは反近代のモチーフでした。こちらが祭り的な要素なんです。
寺山修司や唐十郎の芝居に見られるように、近代化以前に持っていた感受性を取り戻そうみたいなメッセージですね。我々はこうした感受性を喪失した結果、〈世界〉の豊かさに接触できない貧しき存在になったという。だから僕は、反資本の「世直し」と、反近代の「感受性回復」が、両方大事だと思うようになりました。
中2ぐらいから、当時赤軍派のシンパだった若松孝二と足立正生のピンク映画にはまるようになって、尚更そういう方向性が強くなりました。〈ここではないどこか〉を希求する主人公が〈どこかに行けそうで、どこにも行けない〉という話です。その上で〈ここではないどこか〉を希求する営みを、肯定的に抱擁するわけです。
また、当時は、全学集会や学年集会で演説をする機会がありました。集会は祭りそのものです。演説では、現代国語とはまた違ったパターンプラクティスの成果が利用できることがわかりました。かくして、価値を訴えて人を動員する快感を、中2ぐらいで知っちゃったんですね。
宮台
出口
宮台さんが中学生の頃と言うと、全共闘の学生運動がほとんど終わりかけている時代ですよね。そこから若者たちは押さえ込まれてしまい、ますます感受性の喪失云々と指摘される世代へと移っていきますが、ちょうど僕らはその狭間の世代。だからどちらの世代にも通じるものがあるけれど、それらを客観的に批判する眼も持ち合わせているような気がしますね。
確かに距離をとりながらモノを見ます。僕は78年に大学に入ってすぐに映画を撮り始めました。主に新宿を舞台にしてアバンギャルド的な色合いの強い映画を撮っていたんです。でも79年には周囲にアングラ廃業宣言をして辞めたんですよ。
というのも、77、8年辺りから時代の空気が変わって、アバンギャルド・ロックやプログレ・ロックやアングラ劇の時代が終わり、代わってテニスブームやディスコブームやサーファーブームやナンパ・コンパ・紹介といった時代が始まったんです。
僕は、土曜はディスコで踊りながら、アングラ映画も撮るという分裂した毎日を生きていました。おかげで人よりも時代の変化に敏感になれました。そして、大学でいまだに学生運動をやっている連中のことを、モテないからじゃないかと思うようになりました。
それで「俺がアングラやってるのも、あいつらと同じ理由だと思われるかもしれない」と思うようになって、急いでやめ、うってかわって84年に友達と学生企業を作りました。こうした変転・めまぐるしさは、距離をとる習慣に関係しているのかもしれない。
最初はテレビドキュメンタリーの構成台本書きや企画出しをしていたんですが、84年ぐらいからはマーケットリサーチの会社に変わりました。事務所が赤坂にあって、六本木のデータ処理会社とジョイントして仕事をしていました。その会社が僕らを接待旅行に連れていって、会社の一番きれいな女子社員を付けてくれたりして。本当にバブリーでした。84年からの4、5年は一瞬だったけれども、今の若い人たちには考えられない時代でしたね。かくしてアングラは封印されました。
ところが、91年にバブルが崩壊する。同じ頃に寺山修司が亡くなる。寺山の追悼特集号がいろんな媒体で組まれて、若い人たちが突然アングラ芝居を見始めるようになり、引きずられるようにアングラの映画や音楽にも関心を持ち始めたんですよね。
僕はそのとき東京外国語大学で教えていましたが、僕が昔ハマって封印していた知識を出してみたら、学生が、「イタイ」どころか、「カッコイイ!」と食いついてきて、びっくり。それからはアングラにハマっていたことを隠さなくなりました。
宮台
麻布、アングラ、性愛
出口
宮台さんは若い頃から流行に対するアンテナが敏感で、常に時代の最先端を走ってきたんだなあと改めて思いましたね。中学生の頃から、当時の高校生がやっと興味を持つような価値観に対して深い関心を抱いていたわけですから。その早熟ぶりは60年代という激動の時代の申し子と言えますね。
一方、僕の若い頃は、時代の流れに乗っかるわけでも逆らうわけでもなく、のんびりと生きてきたんですよ。「世の中がどうであろうが関係無い、俺は俺なんだ」みたいな青臭い感情を抱きながら、マイペースな青春時代を過ごしてしまいましたが、その分、文学の世界と静かに深く対峙することができたと思います。すると、そこでもやはり現代の感受性の危機っていうのを強烈に感じるようになる。僕はそういう悲愴感やもどかしさを文学にぶつけようとしていました。ずっと四畳半の部屋にこもって……。
僕らは同時代体験をしながら、発露の仕方は対照的な気がしますね。
僕の場合、麻布に学校があった影響が大きいでしょうね。場所柄、遊びに行く場所は渋谷か六本木、近場だったら広尾になる。僕らは「いやなヤツごっこ」って言っていましたが、「他の奴らは遅れててダサい」って愚民視をするんです。
原発推進で話題の経産省も、実は麻布ネットワークです。松永事務次官(前)も麻布だし、それに反対してる古賀さんもそう。麻布にいるのは、勉強するのが嫌いな連中か、勉強が好きでも、遊びができないヤツはアホという扱いに適応した連中。
こうした適応をしていくうちに、愚民視する文化に近づいていくんです。それが、既得権を露骨にゴリ押しする経産省ネットワークのようになるか、僕のようにアングラ的・反体制的な敏感さを持つようになるか、という具合に分岐するわけです。
宮台
出口
宮台さんが表現の場所としてアングラの世界を選んだのも面白い。学生運動がどちらかというと「破壊」にエネルギーを費やしたのに対して、アングラは映画でも劇でも既成の枠にとらわれずに何かを「創造」するベクトルが強いでしょう。アングラ文化は、既存の大衆的概念とは別のところから何かを生み出すという意味では、志向せずとも本質的に革命に近いもの、つまり権威のようなものとは離れたところから立ち上がる創造性がある。そういう姿勢は、時代に先駆けて社会問題の新しい捉え方を提示し続けている今の宮台さんにもつながっていますよね。
60年代末の学生運動の頃は、チェ・ゲバラや毛沢東や金日成といったアイコンがあって、〈ここではないどこか〉を、キューバや北朝鮮や中共といった現実の世界に探していました。でも、それが70年初頭に頓挫します。
実はアングラの最も旺盛な活動期は60年代ではなく、70年代前半です。〈ここではないどこか〉を現実の世界に探せないので、観念の世界に探そうとした。プログレッシブ・ロックや小劇場芝居を含めて、観念の世界でアングラが花開きました。
現実の世界で、破壊の後に何かを生み出そうとして頓挫したから、何かを生み出すにも観念の世界でやるしかなかったわけです。そうした追い込まれぶりを、グラムシの文化的ヘゲモニー論で正当化しようとしたわけです。僕もそうでした。
グラムシはルカーチとならぶ戦間期の欧州マルクス主義者で、共通して、革命の客観的条件がそろっても主観的条件が熟さないのはなぜかを論じました。そのうえで、ルカーチはオルグの必要を、グラムシは大衆表現による意識改革の必要を見出しました。
70年代前半には、党派的な革命運動からの退却を、正当化する枠組みが、2つありました。ひとつは、先日逝去された吉本隆明の自立思想で、もうひとつが、グラムシの文化的ヘゲモニー論でした。
グラムシに同感する立場は構造改革派と呼ばれていましたが、この枠組を「渡りに船」として、多くの政治活動家がアングラ表現者になりました。ところが、僕も含めて、そうしてアングラに行ったヤツの多くが、77年頃にさらにシフトします。
〈ここではないどこか〉を、政治でなく、性愛に求めるんです。ドイツ的なロマン主義から、フランス的なロマン主義へ、です。具体的にはアラーキーから、初期の投稿写真への流れです。僕の友人にも〈政から性へ〉を体現した友人がいました。
宮台
エネルギー過剰、割に合わない世直し
そして、これまた偶然なんですが、〈ここではないどこか〉を求めるのはイタイから、〈ここの読み替え〉に向かおうという動きが、70年代半ばに浮上します。当初は、カタログを手に街を歩けばたちまちワンダーランド、という動きでした。
実際、ある種の「シャレ」として、ソープ街だった渋谷職安通りを公園通りに読み替えたり、東京をTOKIOに読み替えたりしていたのが、後続世代が、それをベタに「オシャレ」だと思うようになりはじめます。〈シャレからオシャレへ〉ですね。
こうして、街の読み替えのためのシャレとしてのカタログ・ブームは、オシャレな恋愛のためのマニュアル・ブームに、シフトします。僕らは、こうした性愛的なものの浮上に、シャレとして関わった世代だと言えます。
宮台
出口
でも、女性に行ってしまった人たちというのは、この現実を変革しようとする方向へは向かず、どちらかというと逃避的になってきますよね。ここ最近の宮台さんのいろんな活動を見ていると、実際に日本のシステムを変えようとすることに関心があるような気がするんですけども、それは昔から消えずにいたのか、どこかで変わっていったのか。
昔からです。毎日が幸いであれば幸せになれる〈内在系〉と、毎日が幸いであるだけでは幸せになれない〈超越系〉を分けるなら、僕は〈超越系〉です。これとゆるく重なりますが、〈充足系〉と〈過剰系〉を分けると、僕は〈過剰系〉です。
大杉栄や毛沢東が典型ですが、有名な世直し活動家の多くは、女関係も派手でした。「英雄、色を好む」という言葉で、ある種の理想像として語られても来ました。要は、エネルギーが過剰でないと、世直しみたいな割に合わないことはできません。
割に合わないという意味は2つあります。第一は社会学者ウェーバーが言ったこと。政治に真摯に関わる者の倫理は市民のそれとは違う。法を守っていては、法を守ることに意味を与えるような社会が破滅する場合、法の外で振る舞うべきだ。
でも、そう振る舞ったからといって、社会の破滅を防げるとは限らない。失敗すれば法を蔑ろにした咎で血祭りにあげられるだろう、と。その意味で、政治に真摯に関わって世直しを志すのは、普通に考えれば、絶対に割が合わないんですね。
ところが、若い人たちのコミュニケーションを見ると、90年代半ば頃から次第に、〈過剰系〉が、イタイ存在として見られるようになって、過剰であることを回避するようになりました。これは、世直し活動家のリクルーティングにとって痛手です。
もう一つ、政治的コミュニケーション、特に外交におけるそれは、損して得取れの戦略的コミュニケーションでなければいけない。カタルシス(気持ちスッキリ)が目標の「表出」でなく、相手を自在に乗りこなす「表現」でなければいけません。
相手を自在に乗りこなすためにはコミュニケーションの経験値が必要です。なぜ日本の政治家が外交音痴だったり政治音痴だったりするのか。それはコミュニケーションの経験値が低いから。このことが性愛コミュニケーションのダメさと結びついているのです。
宮台
第二部 コミュニケーションと宗教性
急増するマザコン男たち
最近の若い男女の関係性についてですが、傷つきたくないから入り込まない傾向が顕著です。性体験済みの若者の割合は、2000年に入ってから高3女子ですと47%前後でずっとフラット。男子は2006年前後に女の子に追いついて以降、ずっとフラットです。
だけど、2000年頃から一貫してステディ(特定の交際相手)がいる割合が減っています。僕の調査だと、女子大1~4年生にステディがいる割合が、2000年頃は4割だったのが、今は1割台。理由を聞くと、第一が「面倒くさいから」。第二が「他にも楽しいことがあるから」。
女子の答えは、男子にソクバッキー(束縛する恋人)が増えたことも背景の一つでしょう。1時間おきにメールしろ、3時間おきに写メを送れ……。暴力を振るう男子も増えました。男子の性交経験者の割合が増えたことによる、能力平均の低下もあるのでしょう。
最近は女子に、まともな男を見分ける3つのテーゼを話しています。第一に、過去の性愛体験を洗いざらい喋っても怒ったり耳を塞いだりしない男。「僕は君が好きで、君の経験は君の一部だから、君の経験の全てを受け入れる」と言える男です。
第二に「君はこういう人間だからこういう服は似合わない」などと、女子の服や髪型にいちいち文句付けない男。そういう男には女子をアクセサリー視する輩が多く、マザコンが目立ちます。多くの場合、母親の好みを内面化しているのでしょう。
第三に「君はこういう人だからこういう就職をすべきだ」などと、将来について断定的に言わない男。相手を知りもせず経験もないのにこれを言う男にも、女子をアクセサリー視するマザコンが多い。「母親の前にお出しできる仕事をしろ」という訳です。
宮台
出口
それは意外ですね。逆に、女性の過度な束縛を男性が嫌がるというパターンはないのですか。
病的なまでに相手を縛るのは、男が圧倒的に多いですね。女子も、残念ながら、それを縛られていると感じないで、「愛なのかなあ」とか同級生にしゃべっちゃう。「バカじゃないの」って思いますよ。そんなのは愛でも何でもありません。
男の単なるエゴイズム。エゴセントリック(自己中心的)なナルシシズムです。そういう男に限って、判で押したように「今度、母親に会わせるよ」と必ず言う。なぜなら、マザコン男にとって、母親の承認がナルシシズムの一つのポイントになるからです。
女性に覚えておいてほしいのですが、「君の男性経験なんて聞きたくない」「その髪型はだめだよ」「君はやっぱり理科系じゃなく文科系じゃないかなあ」、極めつけに「今度、僕の母親に会わせるよ」、これらが全部揃う場合、最悪の男になります。
宮台
出口
なるほど、女性の方は参考になったかな(笑)。
「自分かわいさ」の織の中で
出口
僕も若い人たちを見ていると、恋愛のみならず、深い人間関係を極度に恐れているように感じます。表面だけのつきあいでつながっている若者たちが確実に増えている。結局、人間とそんなに深い関わりを持たなくても、ゲームやアニメなど、いろんなもので代償できてしまう。それが一つの時代的問題ですよね。
マザコン男に代表されるように、女性を自分と同等の人格を持った人間ではなく、まるで自らの所有物のように扱う男性が増えているのも、同じような理由によると思うのです。異質な他者を理解することはそう簡単ではないから、人と深く関わると必ず傷ついてしまうものですよね。でも今の若者は傷つきたがらないし、自分も悪者になりたくない。だから「人間」と実存的なところで深く関わることを無意識に拒んでしまう。その結果のアクセサリー化なのでしょう。
出口さんのおっしゃる通りで、結局「自分かわいさ」の檻から出られないんですよ。自分のプライドが傷つかざるを得ない状況か、セルフイメージに否定的な印象を抱かざるを得ない状況となると、必要以上にものすごくダメージを受けてしまうのです。
仕事中に上司や同僚から叱責されると、「私のこと嫌いなのね!」みたいな感じになって会社に来なくなってしまう。ゼミでも同じです。「君の発表の仕方はデタラメじゃないか」なんて言うと、「尊厳を傷つけられた」などと事務にクレームを出す。
男女交際は第一印象から入るので、かわいいから、頭が良いから、という理由で最初は好きになります。でも、かわいい人も頭が良い人もごまんといます。雨降って地固まるじゃないが、その人でなければいけない理由は、後からでき上がっていくものだと思うんです。
つまり、崩れては再構築するスクラップ・アンド・ビルドの過程を経て、その二人の間にしかない関係性の履歴が積み重なり、相手が唯一の存在になります。そして、二人の関係性なくしてはあり得ないようなセルフイメージになるわけです。
そのようなセルフイメージが育まれれば、もはや相手は「自分が自分であるために」本当に不可欠な存在になります。だから、別れる辛さは、単にプライドが傷ついた云々といった辛さとは別格なんです。
でも最近はそこまでいかないわけです。若い人たちは、つきあっても2週間から3ヶ月で別れるのが大半です。別れの理由を尋ねると、大抵が「思ったのと違ったから」という答え。
でも、僕らの世代だったら「思ったのと違う」のは当たり前。そこから歴史が始まりました。「思ったのと違った」としても、好きだから我慢し、何とか乗り越えようとして、悪戦苦闘した。かくして痴話喧嘩も含めたさまざまなトラブルが、関係性の履歴を形づくります。こうして、気づいてみると相手との絆ができ上がったわけです。
宮台
出口
最近の若い子たちは、そんなふうにトラブル込みで人とつきあい続けることができないようですね。
そう。トラブルを予感しただけで、回避して他の所に行きます。十年前に僕が出した『SPA!』の企画で統計調査したら、カレシ・カノジョの携帯電話を盗み見た経験があると答える20代男女が7割に及びました。初めから疑っているからです。
盗み見れば、必ず知らない人とのやり取りがあります。「なぁんだ、タコ足か」ってことで、リスクヘッジのために自分もタコ足化します。すると今度は、相手が盗み見て、「なぁんだ、タコ足か」ってことになって、お互いにタコ足状態になるわけです。
こんな風に、トラブルが起これば乗り換えられるように、元カノや元カレとのコンタクトを続け、メル友を確保したりして、潜在的タコ足状態を続けます。で、何かがあると、相談という名目で、スイッチする。その繰り返しなわけですよ。
宮台
俯瞰的視点の希薄さと宗教間
出口
それに関連しますが、僕はこの前「メタ意識」という言葉を用いて本を出しました(『奇跡の「話す」「書く」技術』フォレスト出版)。そこで「人間はもともと主観的にしか見ることができない以上、意識的に設定した他者の視点から自分を見ることが必要だ」と述べたのです。
たとえば、彼女の視点から自分を見てみたり、見ている彼女・見られている自分も含めて、まるで空の上から全体を俯瞰するかのように別の視点から2人を見直すのです。これが自在にできるようになれば、自分の主観の世界に閉じ込められてしまうことはない。主観的な価値観だけを物差しにすると、当然他人とうまくコミュニケーションできなくなってしまいますから。
昔から日本人は自然と同化し、自我と万物が渾然一体とした世界で生きてきましたから、客観的な視点というのは立ち上がりにくく、すべてが主観的地平の上に存在していたといえるかもしれません。
近代化後も、西洋のように徹底して対象化する姿勢を育てないまま、自然科学を表面的に模倣してしまいます。それによって、理解不能な他者に対する思慮深さや、未知の問題を能動的に解決しようとする思考はついに育たなかった。
だけど、同化する能力だけは衰えずに残っているから、表面的なコミュニケーションはむしろ得意で、一方、自分が傷つけられたかどうかのセンサーも非常に敏感なんですよね。
ええ。『「空気」の研究』で有名な山本七平が、その3年前に書いた『「日本人」原論』という本で、キリスト教文化圏に属するがゆえにユダヤ教やイスラム教と同一の唯一絶対神を持つ欧米人を、アニミズム的な日本人と比べています。
唯一絶対神の社会では、自分としての自分が生活に満足でも、もしや神の意思を裏切っていないかという具合に、「自分が見た自分」と「神様が見た自分」、両方のイメージを持ちます。
宮台
出口
俯瞰的な視点ですね。
はい。「自分が満足する」だけじゃ済まなくて、「満足している自分はそれでいいのか」と、視座がベタとメタに二重化します。けれど日本人にはそれがない。神は神でも、アニミズム的な山の神様や、川の神様や、便所の神様がいたりします。
これらは、神様と呼ばれながらも実は友達なんです。絶対神は取引きしない――善行を積んだから救ってくれるなんてあり得ない。けれど、友達神は「君は賽銭を50円しかあげないのか、僕は500円もあげたぞ」なんて会話が存在してしまうわけです。
山本七平は、日本人の多くが「自分としての自分」の枠から逃れてモノを見ることができないことや、空気に縛られやすいということの重要な背景として、絶対神ならざる友達神しかいないがゆえの、視座の単純さがあるとしています。
宮台
出口
日本人のメタ意識が非常に希薄なのは、日本人の宗教観と密接に関係して営々と受け継がれてきた、精神的な習慣が理由です。そんな日本人特有の性質は未だ健在であるにも関わらず、日本の学問は宗教的視点を徹底的に排除して成り立っていますから、ますますややこしい。
神観の違い・精神性の違い
出口
ところで今おっしゃったことで思い出したのですが、よく受験生が神社に行って合格祈願をしますよね。気持ちはわかるし、日本人らしい感覚なのだろうけど、僕にはさっぱり理解できない。
というのも、本当に神がいると信じたとします。たとえば自分がまったく勉強してなくて、本来だったら不合格になるはずなのに、100円のお賽銭を入れて、「どうか合格させてください」と祈る。しかし、もし神が100円をもらって「よし、おまえの願いを聞き届けてやる」と叶えてしまったら、本当は合格するはずだった誰かが落ちてしまうわけです。
――神を信じていながら、神の前で自分のエゴをむき出しにできてしまう感覚。また、それを商売にする神社の感覚。いかにも日本人独特というか、主観的な世界のとらえ方ですよね。神も宗教も、すべてを自分の狭い世界にひっぱってきて、すり替えてしまうというか……これは今でも普通にある話ですよね。
そうです。多くの日本人は「絶対神は取り引きしない」という意味が分かりません。これが分からないとユダヤ・キリスト教文化圏を理解することは不可能です。「私をお救い下さい」という祈りを、ご利益祈願と勘違いする我々は、絶望的と言っても過言ではないでしょう。
主の祈りに《御心の天に為す如く、地にも為させ給え……我らを悪より救い出し給え》とあるでしょう。これを言い換えれば、《神よ、私はあなたのもの。私がみんなを裏切らぬよう、どうか私を見ていて下さい》です。ご利益もクソもありません。
僕が以前中国に行ったとき、非合法に教会活動をする人々のミサに潜り込ませてもらったことがあります。そこでは「神の計画」の話をしていました。日本の中国侵略がなければ抗日戦が無く、抗日戦が無ければ国共合作が無く、中国解放はなかった、と。
詳しく言うと、抗日戦の当初、共産党軍は3万人、国民党軍が100万人で、圧倒的勢力差がありました。ところが抗日戦で100万の国民党軍が、ほぼすべて日本に張り付かざるをえなかったので戦力が半減した。その隙に共産党軍が勢力を100万に拡張し、中国解放を成し遂げた。
つまり、日本という「悪」が存在するのだと我々は思いがちだけれど、創世記のラスト近くにおける「ヤコブとヨセフの伝承」に記されるように《神は悪を善となす》のであり、その意味で日本という「悪」は、神の計画(御心)なのだ、と。
そもそもが旧約聖書のエピソードにあるように、エジプトで強制労働させられる、あるいはバビロニアに攻められて捕囚となる、という度重なる悲劇を被ったディアスポラ(離散民族)が、自らを支えるための存在が、ヤハウェ(主)なのです。
宮台
出口
なるほど。
その意味で、ユダヤ教もキリスト教もイスラエルの悲劇なくしては存在し得なかった。ユダヤ教徒やキリスト教徒はそう考えます。神と取引して合格したがるんじゃなく、神が私をあえて不合格にしたと見なす。それが《神よ、私はあなたのもの》です。
大切なのは、神は絶対で人は相対だから、神の御心は私から見通せないことです。同じく神は絶対で人は相対だから、取引・契約で神を縛ることもできません。だから全くの不確定性を前にしながら先に進む。それが生きることだと観念されます。
我々はエデンの園で神の遣いである蛇のそそのかしに誘惑されて知恵の木の実を食べた者の末裔です。それを食べたことで自ら善悪を判断する力を得ました。でも相対者の善悪判断はいつも間違っています。それが「原罪」ということの意味です。
その意味で、創世記における《神は悪を善となす》は、同じ創世記の冒頭部分におけるエデンの園の原罪譚を踏まえたものです。人は相対的で不完全な存在なので、悪だと思ったものが時を経て善を生み出したというふうに見える、ということです。
でも「悪だと思ったものが時を経て善を生み出したと見える」という過程自体が、神にとってはたった一つのことで、悪が善に変化したのではありません。そのことが、悪を支配する悪の神、善を支配する善の神という二元論が否定される理由です。
宮台
第三部 3.11で露呈した世界
原発ツイートを振り返る
出口
さて、未来を構想することは、まさに今われわれに突きつけられている課題でもあります。あの3.11を境に日本は大きく変わった。そしてこれからもさらに変わっていくと思いますが、まずはあの地震の日、宮台さんはどうされていましたか。
その日は、レギュラー出演しているTBSラジオの「デイ・キャッチ!」という番組の打ち合わせのために家を出ていました。世田谷区に住んでいるのですが、渋谷区神泉の新山手通りに車が差し掛かったところで、地震に遭ったのです。
高架橋がバウンドしていて、「あ、これ落ちるなあ」って本気で思いましたね。しかし、周囲にも走行中の車があり逃げることは不可能だと、正直観念しました。揺れが小さくなって、すぐに家に電話をし、家族の無事を確認しました。
宮台
出口
それは怖い。ご無事で何よりです。僕はちょうど飛行機で空の上でした。飛び立ってすぐだったので、まったく気がつきませんでした。だからその時の実感は無いのに、あとから後遺症だけ埋め込まれたような感じです。
さて、福島で原発事故が起こったわけですが、原発が危ないと感じられたのは、いつ、どのタイミングですか。
そのままTBSのスタジオに出かけ、津波の中継映像を見ました。原発はまだ話題になっていませんでしたが、僕は「マル激トーク・オン・デマンド」で長らく原発政策の合理性を疑う番組をやってきたので、すぐに「原発がやばいな」と思いました。
宮台
出口
ということは、ずっと言われていた「安全神話」も、以前から信じていなかったということですね。
ええ。高い津波を想定すると「絶対安全神話」を自己否定することになる、という馬鹿げた理由であえて低い津波しか想定していない、なんてことを熟知していたので、「絶対安全」など、まったくあり得ないと思っていましたね。
ただ、僕が「東電や政府の言うことを信じていたら、とんでもないことになる」っていう内容のツイートを連投し始めるのは、3日経ってからです。それまでは迷っていました。日本では原発論議が、「陣営帰属&誹謗中傷」に終始するからです。
そのせいで、是々非々のコミュニケーションができないとは、実に不毛な話です。結局、ラベル貼りをして中傷する以外の、サブスタンシャルな(内容のある)コミュニケーションができないんです。国会などにおける議論もまったく同じですね。
ネットを見ていてもそう感じます。内外の情報をツイートしたいと思っていながら、それをするとどんな扱いになるかが大体分かるから、躊躇していました。けれど娘の幼稚園の親友達を見て、彼らのためにも情報を出そうと思い直しました。
そのツイートは年末まで続けました。でも内外の情報を正確に評価することは実に難しいのです。専門家でも分からなかったことが二つあります。一つは、直後の事故情報です。官邸と経産省と東電が握りつぶしていましたから。もう一つは、低線量内部被曝問題と除染問題です。
だから何かにつけて「デマだ」「煽るな」といった反発が盛り上がります。とはいえ、前者については事故発生から一ヶ月以内に決着がつきました。僕がツイートしていた通り、最悪の事態を政府と東電が隠していた事実が分かったからです。
でも、後者についてはそうはいきません。だから現在も、「効果がない除染を推奨するのは政府や東電の回し者だ」という議論と、「低線量内部被曝の実害が学問的に不確かなのに誹謗するのは現地の人々を見下すものだ」という議論が対立します。
つまり「本当のところどうなのか」を真摯に探求すれば、「本当のところどうなのかが分からないのが本当のところだ」という問題が少なくないんです。情報の確たる評価ができないものをツイートしないという選択は、それ自体が政治的です。
宮台
がんじがらめの利権構造
出口
原発事故が起こった時点では、大抵の人はまずは政府、あるいは東電の発表を信じますよね。
「デマだ」「煽るな」という輩がテンコモリでした。〈引き受けて考える作法〉ならざる〈任せてブー垂れる作法〉なので、電力供給の地域独占体制&電力料金の総括原価方式という結びつきの意味を知らず、脳天気でいられたからですね。
元々僕らは「マル激トーク・オンデマンド」でそうした問題を議論してきていました。だから政府や東電の発表を信じることが、如何に馬鹿げているのかを知っていました。第一、米国に比べて日本は産業用で5倍、家庭用は2倍以上の電力料金なんですよ。
つまり、背後に巨大利権があるということなんです。総括原価方式では発送電の総コストの3%を利益として取る仕組です。コスト圧縮動機が働かないどころか、経産省と東電は事故処理コストも「総コスト」に含めて利益増大を図る動きがあったのです。
この仕組で電力会社は膨大な利益をあげます。でも家庭用電力料金は政府の許可が要る。そこで批判を回避するべく、経費として計上できるように、豪華絢爛な社宅や福利厚生施設をつくり、事故後なのに会長の退職金に2億円を積んだりします。
これだけでも驚きですが、僕に言わせると小さなこと。もっと重要なことがあります。暴利をあげた電力会社は、地域の放送局や新聞の大株主だし、地域の主な企業の大株主だし、地域のオーケストラや文化事業の後援者だったりするわけです。
当然ながら地域経済団体のトップは例外なく電力会社。自民党は地域経済団体を集票母体とするから電力会社のいいなりです。また、労組で最も大きいものが電力総連と電機労連です。民主党も労組を集票母体とするから電力会社のいいなりなのです。
先ほど述べたように、マスコミ方面でも文化人方面でも、電力会社の権益と無縁でいられるのは例外的です。単に広告収入を電力会社に依存しているだけではないのです。つまり、経済も政治も文化も、地域独占的電力会社に依存しているのです。
そのことを事故前から明言してきたのは、「マル激」など少数です。こうした事実を知らずに、分権だ、民権だ、自治だ、NPOだなどとホザいて、お祭りがわりのデモを推奨してきたのが、柄谷行人などの日本の文化左翼なんですから、お笑いです。
宮台
出口
あらゆるメディア、文化、政治――もう何もかもが体制に依存しているわけですよね。スポンサー料を出しているからという訳ではなく、もっと大きな構造的理由で、人々は自由にしゃべれない。政府でさえそういう仕組みのど真ん中で、電力会社にべったり張り付かれているわけですから、本当のことを言えるはずがありませんよね。
僕はその時たまたま海外にいて、向こうでパソコンも携帯もうまく使えず情報がまったく入ってこない状況で、正直、政府や電力会社がそこまで虚偽の情報を流しているとは考えていなかったんです。
帰国後、ようやく様々な情報が入り始めて「おかしい」と感じながらも、もし僕が間違った情報を流したら大勢に迷惑を掛けてしまうと思って、正しさを判断しきれずに揺れ動いていました。それでも、公式発表は虚偽だと確信できましたけど。
でも、情報を得るすべを知らない人にとっては揺れ動く余地すらなかったと思うのです。テレビや国家にもまだまだ立派な権威があると信じる人も沢山いて、ましてや未曾有の事態ともなると、人はそういう巨大なものに頼りたくなってしまう。嘘をつかれたくないと無意識で望むから、疑うこともできない。結果、多くの国民が見事にだまされてしまった。
しかし僕は、そんな絶望的と言える現状を目の当たりにして、ある意味で日本は3.11以降大きく変わっていくだろうという希望のようなものも感じました。多くの人々にとって、日本はすごく自由な社会に見えていたかもしれません。
でも実際は、利権でがんじがらめになっている、どうしようもない国だった。真実を報道するはずのマスコミは言論統制されていたし、政府や学者、新聞から大学まで、今まで権威だと思って素直に信じていたものが、本当は信じられないものだった。それが、3.11を境に次々と露呈されていきましたよね。
今まで有識者しか知らなかった日本の真実を、ツイッターのようなメディアによって、ごく普通の一般人でもわがことのように実感できたんです。これは、すごい変化だと思うんですよ。
宮台バッシングの本質
出口
宮台さんも、いち早く発言したのは、ツイッターですよね。
ええ、中2日置いて3日目からツイッターを始めました。
宮台
出口
さきほど言ったような利権構造の中で、先陣を切ってそういう発言をするのは大きな覚悟が必要だったと思います。政府の発表とは異なる情報を得ても、非難されたくないがために思いとどまる人も実際いたでしょうから。
僕は気にならない性質なんです。あの『噂の眞相』にも「都立大助教授M、地方テレクラ取材と称して女子高生とやりまくり説」というのを皮切りに「欄外情報」欄に数十回登場しているし、グラビアになったこともありますが、まわりが真っ青になるのに、僕自身は気にならなかったですね。
今回もツイートしはじめて2週間はバッシングされましたが、3月25日を過ぎた頃、ようやくNHKも、僕らが「マル激」で出していた2つの最悪のシナリオのうちのどちらかになると言うようになりました。水蒸気爆発で木っ端微塵になるか、何年間もの長期間にわたって汚染水のダダ漏れが起こるか。
つまり、これは「マル激」に小出裕章さんに出演いただいて出した説なんだけど、政府の言う「収束」があり得ないどころか、「悪化」以外あり得ないということです。マスコミよりも2週間早く、二つの最悪シナリオを出し、また炉心溶融も1ヶ月早く予想していたことで、バッシングのツイートは蜘蛛の子を散らすように消えました。
面白いですよね。マスコミが既得権益ネットワークに深く埋め込まれているがゆえに最悪のシナリオを示せないのは理解できます。でも、今の現象はパンピーの行動なんです。
ここには二つの問題が顕わです。第一は、中身の妥当性を論争しないで、陣営帰属と誹謗中傷に淫する作法。第二は、自明性への依存とでもいうべき作法。
宮台
出口
マスコミが差別発言に極度に神経質になっているのもそうですよね。実際は誰も文句など言ってないのに、自分で自分を縛っている滑稽さがありますよね。
ええ、本当に。僕らが高校生のころから日本でだけ問題視されるようになった差別語が典型的ですよね。外来語の「クレイジー」はオッケーなのに、「気違い」は「ピー」なんですよ。同じ意味の言葉なのに。だいたい差別語がタブーだなんて、日本以外の先進国にはありません。ナンセンスです。
宮台
出口
本質を見ずに、すべて形式的に決めていきますからね。本当は差別する人の心が問題なのに。
評価できないといえぬ政府
出口
先ほどツイッターの話が出ましたが、従来の権威が崩壊しつつあるかわりに、新たなメディアが新聞やテレビに代わって定着してきましたよね。テレビや新聞は一方的な情報発信者だから、裏で電力会社が絡んでいようが、われわれは本当のことが分からないのでそのまま受けるしかない。人は情報を基に物事を判断しますが、与えられる情報が信じられないなら、自分で正しい情報を求めなければなりません。
一方、ツイッターやフェイスブックのような新しいメディアは、ユーザーが情報受信者であると同時に発信者でもある。面白いことにツイッターなら誰をフォローするのかによって、まったく違った情報を受け取ることになる。だから、人任せではダメだとようやく気づくことになりますよね。
そうですね。そのような日本国民の人任せを、政府さえも前提にしている状況があるのです。僕は、総理をはじめとして政権中枢の人たちと連絡できたので、空間線量(γ線)のデータとは別に、低線量内部被曝に関わる土や草木や瓦礫の物質線量(β線)のデータを出すようにお願いしていましたが、どうしても出してくれない。
理由は、「そんなデータを出したら、マスコミから『それは安全なんですか、危険なんですか』と問われたとき、政府が答えられないじゃないですか。それじゃあ政権が持ちませんよ」ということでした。
馬鹿げています。確かに低線量内部被曝に関するデータ評価には、研究が政治的に抑圧されていたので、定説がありません。ならば政府は「低線量内部被曝については専門家でさえ確たる評価ができないのだから、政府ごときに確たる評価などできません。国民の皆さんがインターネットなどで諸説を収集し、周りと話し合って、被曝に関わる『最悪事態の最小化』戦略を採るのか、他の問題とのバランスで考えるのか、決めて下さい」と言うべきです。
でも、政権要人が「そんなことをしたら大変なことになりますよ」という思考に陥ってしまったのには、政府だけでなく、マスコミにも咎があります。というのは、「危険か安全かといったデータの評価まで政府に求めて、政府が答えられないと憤激する」といったダラシナイ依存的作法が、日本のマスコミを100%近く覆っているからです。
低線量内部被曝の研究が、広島・長崎からこのかた政治的に抑圧されてきたことや、日本政府が何かというと依存するICRP(国際放射線防御委員会)が、核保有国の利害を体現した機関であることは国際常識です。だから実際、欧州には市民と科学者の民間ネットワークであるECRR(ヨーロッパ放射線リスク委員会)があるわけです。
マスコミでは、震災発生から3月末まで東電批判がタブーだったし、NHKを含めて電力利権に深く侵された御用学者を平気で出演させていました。一方、僕はスタッフの顔がこわばるのを横目で見ながら、レギュラー出演するTBSラジオでも、東電や、原子力安全保安院を含めた経産省の発表が、全くのデタラメだと言い続けてきました。
結局は3月末までに東電や政府の発表が出鱈目であることが明らかになり、「直ちに健康に被害を及ぼすものではない」といった物言いが噴飯物であることも理解されるようになりました。電力会社批判も解禁となり、やがていろんな検証番組も作られるようになりました。十分かどうかは別として、それ自体は画期的な変化だったと思います。
変化の背景にあるのは、僕が関わる「マル激トーク・オン・デマンド」を含めたインターネット情報とマスコミ情報を比べると、マスコミ情報が全面的にガセネタだったのに対し、インターネット上には玉石混交であれ、妥当な情報が多数やりとりされていて、マスコミの信頼が地に落ちたことです。その事実にマスコミ自身が気づいたのです。
宮台
自立できない国民たち
ネットとマスコミの乖離は、国民の側にも課題をつきつけています。ネット情報では、石の中から玉を識別するためのメディア・リテラシーが必要です。マスコミは、5系列16社の記者クラブ的横並び体制のせいで、どこを切っても同じトコロテンで情報源を選べませんでした。だから選ぶための方法論を知らない人が多いんです。
ネット上でも「誰々の言うことなら安心だ」というスタンスで接することができる“権威”を探そうとする動きが目立ちます。つまり、自分の頭で〈自立〉して考えるかわりに、何も考えずに〈依存〉できる他人の頭を探そうとしがちなのです。必要なのは、選ぶ力。一人で選べなければ、友人・知人のネットワークで選ぶんです。
宮台
出口
宮台さんがいち早くそうしたように、隠ぺいされた正しい情報も流される一方、やはり多くのデマが発生し、誰かがデマと思わずリツイートで拡散……ということもありましたから、自分一人で判断するのは非常に難しくなってきていますよね。
そう。人間関係が大事です。「マル激」などで「マスコミ依存からの脱却」を唱ってきたけど、それだけじゃ足りない。僕自身、番組を通じて人とつながれて、初めて空間線量……つまりγ線とは何かであるとか、β線やα線などの空間線量として表れない物質線量とは何かを学んだし、先に述べたICRPとECRRの違いを学びました。
一日中、原発や放射能情報だけ調べることなど普通は無理です。ですから、「正しいことだけをツイートしろ」なんて説教は無意味なのです。「意図して嘘を流す」というデマは駄目ですが、「本当のところはよく分からないのが本当のところ」みたいな問題こそ、ツイートしまくらなきゃいけない。さもないと政府と同じデタラメに陥ります。
低線量内部被曝のデータ解釈や、除染の有効性に関するデータ解釈は、専門家でさえ通説がない。このような「本当のところはよく分からないのが本当のところ」みたいな問題では、「この人の言うことなら」という種類の確かさを期待して……例えばアルファブロガーに依存するようなやり方は、絶対にやめなければなりません。
光と影の間に半影があります。月蝕では、月が地球の黒い影に隠れる前に、赤茶色い半影に覆われる。半影部分は光か闇か(安全か危険か)という二項図式が通用しません。主題によっては半影部分がとてつもなく大きいことがあります。そのような半影部分は、安全上の功利、修学上の功利、職業上の功利、人間関係上の功利を絡め、自立的に判断する他ないのです。
そこで観察するべきは、専門家の意見でなく、自分と似た境遇の人たちが、どんな理由でどう判断して、どう行動しているかです。同調や模倣を推奨しているんじゃない。似た境遇の人たちの営みを、自分がどう評価するかを通じて、自分や自分たち家族の身の振り方を決めるんです。その意味でも人間関係が圧倒的に大切です。
宮台
エリート・パニック
出口
そういえば原発事故が起こって、たしか3月半ばだったでしょうか、1週間ぐらいものすごい放射能が……。
すごかったです。
宮台
出口
東京にも来ましたよね。
ええ、3月15日ぐらいが一番すごかった。
宮台
出口
あの一週間に東京にいたか否かで被ばく量が大分違うと思うんです。でも、多くの人が政府やマスコミを信じて被ばくした。もはや、自分で正しい判断をしなければ命に関わってしまう状況に陥っていますよね。
僕はヨソの子を含めて疎開しました。大袈裟だとの批判もあったけど、結局は妥当だったことが後にデータで分かりました。それに絡んで、風評被害とパニックという言葉が安易に使われます。放射能感受性の高い乳幼児を抱えた親が「最悪の事態の最小化」のためにのりしろを多く取るのは、危機管理的に完全に合理的です。
親が茨城や千葉の野菜を買わない。これが風評被害と呼ばれてしまう。低線量内部被曝問題の学術的不透明性に加え、今回の原発災害で僕たちが中央行政も地方行政もマスコミも信頼できなくなりました。嘘つきの政府とマスコミを信じないことには合理性がありますが、風評被害というラベル貼りはこの合理性を覆い隠します。
パニックも同様。当時の細野首相補佐官が、speediのデータをアメリカには24時間以内に提供したのに、国内向けには一ヶ月以上もデータは存在しないと嘘をついた理由を、「パニックを恐れたからだ」と記者会見で説明しましたが、これについて前の日本部長ケヴィン・メイが「パニックではなく、国民の憤激を恐れたのだ」とツイートしました。
メイの言う通りです。絶対安全神話を吹聴してきた政府は、神話を否定するデータを出せば、国民が憤激して反原発世論や反東電世論が噴き上がり、「直ちに健康に影響が出るものではない」などとエラソーな面を下げてほざくことが不可能になると判っている。東電も政府も、国民にどの面下げるべきか分からなくなる、それが理由なのです。
その意味で、このパニックはパニックでも、災害社会学者キャスリン・ティアニーが「自分たちが維持すべき社会秩序が、災害下では貧困者やマイノリティによって破壊されると考える恐怖心」として定義した「エリート・パニック」でした。この場合の秩序は、正統性と利権を含みます。正統性とは「国民にどの面下げて……」です。
宮台
第四部 引き受けて考える作法
日本の最大の欠点
出口
また何か事故があったらとんでもないことになるとはいえ、福島原発の放射能放出はやがて止まる。すると問題は、空気、大気の汚染よりも、水や食べ物ですよね。これらについて、政府は十分な情報を出していません。政府自身がどう評価していいか分からない、ということなのでしょうけど。
政府ばかりが悪いのではない。マスコミだけでなく、皆が「安心なの? 危険なの? ハッキリ言って」と政府に要求するから、ハッキリ言えない政府が情報を出せなくなる。先に述べた正統性といっても、日本の場合は特殊で「必要な情報を公開するか否か」でなく、「全ての評価を任せられるか否か」なのです。
これは、僕たちが、〈任せて文句を言う作法〉に淫して、民主政治に不可欠な〈引き受けて考える作法〉を持たないことに由来します。加えて、民衆のみならず、任せられたはずの政治家や行政官僚たちが、〈空気に縛られる作法〉に淫して、近代政治に不可欠な〈合理を尊重する作法〉を持たないことにも、由来します。
日本的な作法 〈任せて文句を言う作法〉 & 〈空気に縛られる作法〉
あるべき作法 〈引き受けて考える作法〉 & 〈合理を尊重する作法〉
宮台
出口
誰もわからないことを尋ねるからかえって隠されてしまうということですか。
ええ。科学的想定の曖昧さだけでなく、科学的想定に対する態度の不合理さもすごい。地震学会から30年以内にマグニチュード8を超える地震が東南海で起こる可能性が80%以上というアナウンスが出ました。にもかかわらず「原発直下に活断層が無いので大丈夫」とか、意味不明のコミュニケーションをしているんです。
宮台
今変えられなかったら地球はおしまいだ
出口
まったくです。日本のように複数のプレートが混在して地震が多発する場所に50数基も原発があるというのは、普通に考えたらありえない。そうなると、利権絡みで何が何でも原発を推進しなければならなかったのは、火を見るより明らかですよね。
そう。なぜ原発を推進するのか。技術的な合理性が理由なのではなく、電力会社の独占供給体制維持が理由です。
原発建設には電力会社が払う事業コストの他に膨大な開発補助や立地補助があり、過小に見積もられたバックエンドコストや災害費用があります。要は国が深く肩入れしないと、そもそも原発建設はあり得ないのです。
しかも費用が膨大なので、原発を1基造ったら30年以上運転しないとコストが回収できません。であれば、国が金銭的に深く肩入れした原発のコスト回収を困難にする、競合エネルギーの存在を、国が許容するはずがないという期待の地平というか共通了解が、形作られるわけです。地域独占供給体制の維持こそが原発推進の目的なのです。
宮台
出口
権力者たちが利権を吸い続けた結果、われわれにはおぞましい吸殻が投げつけられた。新たな放射能はこのままいけばそれほどは出てこないだろうけど、既に散々放出されたものに対して、一人一人がどうやって生活していくのかが課題ですよね。
もはや近代、あるいは後期近代は行き詰まっています。そのことを、多くの人が3.11で実感できたと思うんです。つまり、政治から経済、教育、環境まですべて含めて、今までのシステムを続行するとやがて人類は滅んでいくということです。
終末思想じゃないですけれど、今言ったような利権問題もすべて含めて、このままだとおそらく人間も地球もダメになっていくんじゃないかと思うんです。僕は今変えられなかったら地球はおしまいだというくらいの危機感を抱いています。
それでもまだこのシステムを変えずにいこうとする鈍感な感覚が、僕には信じられない。僕は特に、原発というより核そのものが地球に存在してはいけないのではないかと思うのです。人間と共存不可能な悪魔の火を手にしてしまったというか……。一度手にした火がなかなか消えないように、普通の形では捨てることができない。
武力革命とはまったく思いませんが、宮台さんが若い頃に夢見ていたような“革命”が、僕はこれから必要になってくると思うのです。今までみたいな生産量を拡大するだけの価値観じゃなく、どうやって自然と共存するか、あるいはどうやったら人間は幸福になれるのか、どうすればもっと豊かな精神生活を営めるのかとか、いろいろな意味でもう一度既存のものを白紙にして、見直して考えなければならない時期ではないかと。
そういう意味では、宮台さんみたいなオピニオンリーダーがこれからどういう形で発言していくのか、すごく楽しみですね。
補助金行政から政策的市場へ
ありがとうございます。ただ僕の今回の原発ツイートや言論の目標は脱原発ではありません。そこは皆さんの期待とズレます。熱心な運動を含めた個別事情の積み重ねでラッキーにも原発全機が停止したところで、どうなのか。政権が国民的議論を踏まえてドイツのように脱原発計画を前倒ししたのとは、雲泥の差です。
「原発をやめること」よりも「原発をやめられない社会をやめること」の方が重大です。後者が手付かずだと、今後も原発以外の問題で同じことの繰り返しになります。「原発をやめられない社会」の本質は〈依存〉です。〈依存〉から〈自立〉へシフトが必要です。
宮台
出口
なるほど。
具体的には、第一に〈任せて文句埀れる作法〉から〈引き受けて考える作法〉へ。第二に〈空気に縛られる作法〉から〈合理を尊重する作法〉へ。
でも「シフトするべきだ」という類の「べき論」に意味はない。なぜなら、そうした「べき論」を脱臼させるのが〈任せて文句埀れる作法〉と〈空気に縛られる作法〉だからです。 ならば、ダメな作法に従う共同体や結社を淘汰すべく〈補助金が欲しくて行政に従う社会〉から〈儲けるために善いことをする社会〉へシフトさせる。
つまり〈補助金行政から政策的市場へ〉。このシフトも「べき論」に見えますが、このシフトがない限り、国であれ自治体であれ、どのみち財政破綻するので待っていればいい。
日本は先進国のどこよりも全就労者に占める公務員割合が小さく、予算に占める社会保障費割合も小さい。なのに先進国のどこより国の借金(国債残高)が大きい。その理由は、いまだに補助金行政をしているからです。国と地方の借金は、国民の貯蓄を原資とした銀行からの貸付です。貯蓄率が1%余りしかないので、原資が枯渇し、いずれ破綻します。
補助金行政は、特別措置法を作り、特別会計を確保し、配分のための特殊法人を作って天下り先を確保し、配分先の業界にも天下り先を確保します。問題なのは、カネを大きく回すほど利権が大きくなるのでコスト圧縮動機が働かず、第一に予算効率が悪くなり、第二にイノベーション動機が働かず、技術効率が悪くなります。
昨年暮れに新聞が「風力発電の大半が赤字事業だ」と報じましたが、赤字の所は全て行政が事業をやっていることを報じていない。役人には(1)ビジネスノウハウがなく、(2)ビジネスネットワークがなく、(3)ビジネス動機がなく、(4)ノウハウやネットワークの継承がない。破綻して当然なのです。
環境行政の国際標準は、(a)フィード・イン・タリフ(全種全量固定期間固定価格買い取り制)と、(b)炭素税と、(c)排出量取引。これらは全て、行政がルールメイカーとなって、従来と違った環境保全的な振舞いをしないと儲からない、新たな市場環境を作るものです。つまり環境問題は、政策的市場を導入するのに最適な政治課題です。
行政のなすべきことは、善いことをしないと儲からない政策的市場の設営と維持なのです。行政はあくまでルールメイカーに徹し、プレイヤーは民間事業者にやってもらう。そうすれば今述べた(1)〜(4)の弊害を越えられ、行政は「事業をする」のでなく「ルールを作る」だけですから、うまくすれば意味のないカネを回す必要もなくなる。
うまくしなかったのがアメリカ。ここは上下両院で3万人のロビイストがいて、企業やNPOからカネをもらって議員などにロビイをかけ、企業やNPOに有利なルールメイクをさせる。ウィナー・テイクス・オールで、勝者が自分に有利なルールを作る結果、今やアメリカのNPOにはかつての草の根の匂いはなくなりました。
宮台
真の共同体自治へ向けて
政策的市場が公共性を体現するには、ルールメイクの過程に注意が必要です。僕が提案するのが「住民投票とコンセンサス会議の組み合わせ」です。
住民投票は「世論調査に基づく政治的決定」じゃない。半年後の投票に向け、ポピュリズムの批判に耐えるように住民同士がワークショップを繰り返し、民度を上げるためのものです。民度が上がるとルールメイクの過程をチェックできます。つまり官僚が「専門家による決定」という形で特殊権益を温存することや、議員が「専門家不在ゆえの手打ち」の形で行政決定を丸呑みすることを抑止できるのです。だから住民投票の結果いかんは二義的なものにすぎません。結果に一喜一憂しすぎるのは、問題の取り違えだと言えます。
宮台
出口
なるほど。
「コンセンサス会議」は、ワークショップのやり方で参加者を公募と抽選で選び、立場の違う専門家の意見を聴取し、専門家を排して参加者が最終決定します。医療におけるインフォームドコンセント&セカンドオピニオンと同じで、専門家に決めさせないのがポイントです。
社会的な物事を専門家に決めさせてはなりません。行政官僚が専門家を人選した段階でシナリオが決まるからです。いま経産省の役人が「有識者」を人選した、長期的エネルギー政策を答申する、「総合資源エネルギー調査会基本問題審議会」などが開かれていますが、傍聴すれば会議が単なる茶番であることが分かります。
〈補助金が欲しくて行政に従う社会〉の変形バージョンに〈交付金が欲しくて中央に従う地方〉があります。機関委任事務など霞が関のデミセとして振る舞うと、地方自治体にカネが落ちます。これもやめるべきです。これも単なる「べき論」じゃない。やめないと地方が社会経済的に空洞化するからです。
国レベル同様、自治体レベルでも、善いことをしないと儲からない政策的市場を作るしかありません。従来の地方分権化は「地方自治体化」でしかありませんでした。国家公務員が地方公務員に置き換わるだけで、〈任せて文句埀れる作法〉も〈空気に縛られる作法〉も全く変わりませんでした。
そうでなく、〈引き受けて考える作法〉と〈合理を尊重する作法〉に基づく「参加と自治」に支えられた〈共同体自治〉でなければなりません。エネルギー分野はそのための練習台になります。例えば先進国はどこも電力会社と電源の組み合せを選べます。安いものを組み合わせても自然エネルギーだけ組み合わせても良い。
宮台
出口
エネルギーの組み合せですね、なるほど。
需給調整に関するデマンドレスポンス(需要者側の調整協力)が常識で、需給調整特約(電力使用時刻をずらすと価格割引)をにらみながら、事業者であれ家庭であれ、電力使用時間を選びます。独占的電力会社お任せじゃない。今日の〈共同体自治〉はまさにエネルギーから始まるのだと言えます。
こうした〈エネルギーの共同体自治〉に〈食の共同体自治〉が組み合わされば、〈共同体自治〉は膨らみます。〈食の共同体自治〉と言えば、1980年代に北イタリアのブラから始まったスローフード運動です。巨大スーパーで有機野菜やトレイサブルな食品を買うことじゃない。〈食の共同体自治〉の基本は共同購入です。
「原発をやめられない社会」をやめるとは、巨大システムへの〈依存〉をやめること。〈引き受けて考える作法〉と〈合理を尊重する作法〉に基づく〈自立〉です。これを、「べき論」じゃなく、第一に〈補助金行政から政策的市場へ〉のシフトに基づく淘汰で達成し、第二に〈エネルギーと食の共同体自治〉で達成します。
以上のように、僕らが抱える共通問題の中では、原発は部分的問題に過ぎません。
宮台
第五部 宮台的革命論 ― 心の習慣を変えるために
グローバル化と、避けがたい「不安」
ここ2年ほど、ヨーロッパ、アメリカ、中国各地に出かけました。どこに行ってもキーワードは〈不安〉です。グローバル化=資本移動自由化で市場や国家が機能しにくくなったのです。
市場面では、どのみち新興国に追い付かれる既存産業領域で先進国企業が生き残ろうとすると、労働分配率を下げざるを得なくなります。かくして企業が生き残って労働者が困窮します。それを回避するには、新興国が発信できない価値を先進国が発信して新たに市場を作るしかない。単なる成長でなく「産業構造改革を伴う成長」が必要。単なる規制緩和や金融緩和でなく「産業構造改革を伴う規制緩和や金融緩和」が必要。こうした抜本改革が〈不安〉を呼びます。
国家面では、再配分原資を得るべく所得増税や消費増税や法人増税をすれば、資本流出が起こって逆に税収減となり、再配分が困難になります。にもかかわらず、先進国はどこも高齢者人口増による社会保障費増で青息吐息です。増税を含む税制改革は、〈補助金行政から政策的市場へ〉という行財政改革が伴わないと「焼け石に水」なのです。
宮台
出口
おっしゃるとおりですね。
〈補助金行政から政策的市場へ〉は「特措法・特別会計・特殊法人・業界配分」の大規模廃止を意味するので、やはり〈不安〉を呼ぶでしょう。つまり、産業構造改革と行財政改革と税制改革の三位一体を欠いた部分手直しでは、病理状態の延命にしかなりませんが、全面手直しは既得権の大幅移動を伴うので〈不安〉を呼びます。
宮台
出口
なるほど。
市場や国家の機能不全がもたらす〈不安〉は、共同体の空洞化によるホームベース喪失と、過去の趨勢を用いた予想が役立たないことによる将来の不透明化によって、倍加されます。そして〈不安〉を埋め合わせるべく、排外主義的運動や原理主義的宗教への〈依存〉が蔓延するでしょう。つまり全体的に〈感情のポリティクス〉が拡大するのです。
〈感情のポリティクス〉は、経済面では〈不安のマーティング〉を有効にし、政治面では〈不安のポピュリズム〉を有効にします。かくして巨大なセキュリティ利権や政治権力利権が〈感情のポリティクス〉に巣食います。その結果「民主政であるがゆえに、民主政がもたらす不合理を改善できない」という不条理が生じます。
たとえばアメリカの場合、ブッシュ以降の大幅減税が財政悪化の主要因でした。有効な手段は増税と公共事業だけだと判っているのですが、増税しようとすると「苦しいときに国民を苦しめるのか」と大統領が落選し、公共事業をやろうとしても「そんなことに金を使っている場合か」と落選する。かくして増税も公共事業(福祉)もできないのです。
どこの先進国も似た問題を抱えます。グローバル化がもたらした〈不安〉ゆえに、人々は感情的になりがちで過激な行為に加担しがちです。でも本質を理解する必要があります。資本移動自由化により新興国が追いついて来る中で、先進各国は、産業構造改革と行財政改革を迫られていて、流動化や格差化が一時的に不可避なのです。
宮台
出口
グローバル化が現在のように進む前、たとえば全共闘の学生運動が潰されていったような時代には、既成の権威というものは変えようがないぐらい巨大なイメージがありましたよね。あれだけの学生運動の盛り上がりは、日本は変わるかと思わせるほどのものでしたが、結局は何も変わらなかった。全部廃れて、当時の人の多くは逆に体制側に回ってしまいました。そして、やっぱり世の中は変わらない、変えようがないんだ、という虚無感が広がったと思うのです。
グローバル化が進んでからも、やはりどこかで国家という、巨大かつ不動の存在が想定されて、まだ多くの人はそれを頼りにしていたと言えるかもしれません。
ところが3.11、そしてその後の事故で、巨大に見えていたものは実は空っぽだったことが痛いほど分かってしまった。政治も経済も、安心できる基盤や土台など本当は無く、何も頼りにできないんだと、国民は改めて思い知らされました。震災を境に実状が急変したわけではないのだけど、人々がようやくそれを認識した、自覚したという意味で日本は変わった。
大きなチャンスだと思うんです。新しいメディアの躍進もあって、いろんな意味で時代が急激にある一点に向かって収斂しているような感覚があるんですよね。
ホームべース形成能力
そう。昨年の拙著『宮台教授の就活原論』でも触れましたが、新しく職業人として仕事生活を始める人々が勘違いをしています。最大の勘違いは、ホームベース抜きで「仕事の自己実現」ができると思い込むことです。ホームベースとは出撃基地であり帰還場所です。本拠地という翻訳でもかまいません。
中国系やユダヤ系の人々がグローバル化に強い理由は、血縁主義ゆえにホームベースの力が抜きん出るからです。
第一に、世界中に拡がる血縁ネットワークでリソースをシェアするがゆえに強い。
第二に、埋め込まれ背負うがゆえに動機付けが圧倒的に強く、失敗しても戻れる場所があるので危険なチャレンジができるのです。
宮台
出口
なるほど、わかりやすい。
日本には琉球を除いて血縁主義が全くありません。血縁の有無に関係なく「去る者日々に疎し」です。日本での絆の源泉は「一緒に長くいること」です。これは文化ですからどうにもなりません。でもレジデンスやハウジングを重視する定住化政策を通じて「一緒に長くいること」を可能にする環境管理をする方向があり得ます。
そうした政策が動くには時間がかかります。それまでは、出撃基地であり帰還場所でもあるホームベースを作るのは、各自の努力です。日本では馬鹿な親どもが、「ホームベース形成能力」に必要なグループ学習やグループ遊びの経験を軽視し、学童期の子供を燃え尽き症候群や孤独死や無縁死の方向に追いやっています。
そして、こうした馬鹿な連中が、年金保険料の支払と給付の世代間格差についてギャアコラほざきます。どの先進国よりも共同体空洞化を進め、私的扶助(私助)を全面的に公的扶助(公助)に置き換えざるを得ない状況をもたらした以上、世代間格差は不可欠で、イヤなら私助を可能にする共同体を建立する以外にありません。
僕は母校の麻布中・高に何度か講演に出かけています。聴衆は親と子と教員ですが、こういう呼び掛けから始めます。
「お母さん、お父さん。あなたのお子様はモテますか。人生の幸いにとって、多少偏差値が上の大学に入れるか否かより、モテるか否かの方が、ずっと大切ですよ。これは価値の問題じゃなく、現実の問題です」と。
どういう意味で現実の問題か。麻布なので、〈ホームベース問題〉に加え、〈一緒に仕事をしたい問題〉を話します。企業の人事担当を大勢知っていますが、最近目立って増えてきたのが「一緒に仕事をしたいヤツを採る」という方針。
当然です。会社仕事は全てがグループワークだからです。あなたのお子さんは好かれますかと。
宮台
浅薄すぎるエリート観
出口
やはり教育の功罪はすごく大きいと思います。
僕は言語の問題をいつも考えていて、先ほど政治も〈感情のポリティクス〉になってきているとおっしゃいましたが、それは論理的な言語の使い方を教えて来なかったのが一因だと思うんです。みな論理的言語ではなく、感情に訴えかける「感情語」しか使えなくなってきています。
だから感情語のワンフレーズ政治がウケたり、マスコミもヒステリックに右に行ったり左へ行ったりと極端に流れてしまう。戦争中に「非国民」のような言葉で、みんなが流されていたときと全然変わっていないんですよ。歴史から何も学んでいない。教育も例外なく、今までと同じでは通用しないと思います。
そう。出口さんが先におっしゃった「偉そうに見えたヤツがこんなにヤワなのか」という話につながります。極東国際軍事裁判で、A級戦犯の方々が全員「自分にはどうにもできなかった」「今更やめられないと思った」「空気に抗えなかった」と証言しました。幼な心に「こんなショボイ連中がエリートだったのか」と思いました。
麻布ではこうも言います。「お母さん方、こういうショボイ連中をエリートだと思い込んで、もしや結婚しておられませんか。お父さん方、こういうショボイ連中をエリートだと思い込んで子育てするような方と、もしや結婚しておられませんか。そうであるなら完全に手遅れです」と。「僕はそうは育てられませんでした」と。
宮台
出口
軍人の命令に従っていた国民が、その権威が崩れたのを目撃してしまった当時と、3.11以降の日本は、一般市民が「権威のある人たちってこんなもんだったのか」と感じてしまったという点では非常に似通っている気がしますね。
本当の「幸せ」とは
もう一つ大切な問題があります。日本では「幸せ」概念がちゃんと理解されなくなりました。「幸せ」は便利や快適とは違います。宗教学の言葉を使えば、便利や快適は〈内在〉ですが、「幸せ」には〈超越〉を含みます。つまり便利や快適は、単なる機能だから入替え可能ですが、「幸せ」には入替え不能な唯一性が含まれていなければなりません。
これは先にお話しした「誰も見ていなくても、神が見ている」という、〈見る神〉と関連します。「自分としての自分は満足だが、神を裏切っていないか」という、自分の視座と神の視座の二重性に関連するのです。
幸福度調査という名前で、国民のニーズ(欲望)に市場や行政がどれ程応えているかを調べているのは日本だけです。しかし、人々のニーズにどれだけきちんと応えているかを調査するだけでは、たとえ公正や正義を含む問題設定だったとしても、不十分です。それは、人々のニーズに公正に応えた街づくりをするとデタラメになる事実から検証できます。
いま申し上げたようなことは、アルセル・ホネットや、ベアード・キャリコットが古くから注目しています。
ホネットは「パトロギー的な批判」という言い方で、我々のニーズ(欲望)自体が間違っている可能性こそが批判されるべきだとします。むろん欲望批判の欲望も間違っている可能性があるので、批判は「目から鱗」的な「地平を切り開く」ものでなければいけません。そしてここでは「指し示し不可能な全体性」が前提とされています。
「指し示し可能な全体性」の概念を日本の京都学派から学んだのが、環境倫理学者のキャリコットです。功利(欲望)に注目するにせよ、正義(義務)に注目するにせよ、人を主体だと見做した時点で環境開発は既に間違っている。場所自体を一つの主体と見て、人と自然と人工物を含む場所という、生き物にとっての適切さを考えよ、と。
人は〈世界〉と無関係に幸せになれず、しかも〈世界〉は人の視座には決して現れません。短く言えば、人の幸いは〈世界〉の未規定性と表裏一体です。そのことを最大限重視する主意主義の思考伝統は既に2500年以上の長きに及びます。そうした思考伝統が「右」の本質。「社会が良くなっても人は幸せにならない」と考えます。
宮台
出口
「社会が良くなっても人は幸せにならない」と。なるほど。
もう一度平たく言うと、本当の幸せは、主観的な満足とは違います。「便利で快適で満足だけれど、幸せじゃない」という言葉遣いがあるでしょう。入替え不可能な唯一の存在として存在できていないからです。
ソール・クリプキの固有名論が明らかにしたように、入替え不可能な唯一性とは、〈世界〉の唯一性そのもののことです。
子供をノイズやカオスから隔離して育てようという傾向を含めて、世の中には愚昧な営みが溢れています。そしてその愚昧さを実は多くの方が知っています。
麻布講演会で尋ねます。「ノイズやカオスから隔離したベスト環境で、子供に東大進学勉強をさせておられるお母様方、あなたが娘さんだったらお子様は魅力的な男性ですか?」と。ほぼ全員がノーです。
お母さん方は言います。「あらゆる苦難を乗り越えて今の自分がある。そういう殿方がやはり魅力的」と。当たり前じゃないですか。塩抜きの本当の甘みがないように、苦難抜きの本当の幸せはなく、争い抜きに本当の絆はない。それを経験的に知って「ひとかどの人」になります。そういう「モテ」にだけ意味があるのです。
宮台
民主党政権への評価
出口
そうですね。現代では刹那的な快楽だけが求められていますよね。 さて、宮台さんは政権交代をどう評価されますか。
僕自身、民主党政権になることで、〈任せて文句垂れる作法〉から〈引き受けて考える作法〉へと政治文化が変わるんじゃないかと夢想しましたが、文字通り夢想であり、反省しました。当たり前のことですが、〈任せて文句垂れる作法〉や〈空気に縛られる作法〉は、ロバート・ベラーのいう〈心の習慣〉で、簡単に変えられないのです。
つまり、政権が変わる程度では政治文化を変えられないことが改めて確認されました。同時に政治制度が民主主義だから良いとは単純に言えないことも判りました。そのことは中国と比較すると理解できます。日本も中国も社会が急激に変わるところがよく似ます。詳しく見てみましょう。
日本は敗戦を境に、「鬼畜米英」から「米国さん有難う」へ、「天皇主権」から「国民主権」へ等、急激に変わりました。中国も1978年の改革開放政策化と、2008年の北京五輪のビフォー・アンド・アフターで全く変わりました。母は上海のフランス租界で生まれ育ったのですが、母や祖母から聞いていた中国の姿はもうありません。地方まで含めて、ところ構わず痰を吐く人はいなくなりました。振り返れば、日本でも僕が生まれた昭和三十年代には「カーッ、ペッ」は当たり前の風景でしたね。客に対する横柄な応対も全く見られなくなりました。ホテルでも喫茶店でも、アメリカの接客が笑顔を欠きがちなのに比べれば、笑顔満載なので気持ち良いです。
日中ともに一瞬で変わるのは共通ですが、決定的な違いがあります。日本は、空気次第で社会が一変しますが、中国は、絶対権力の意向次第で社会が一変するのです。正確に言うと、前者は「皆の意向について皆が思っていることの想定」、後者は「権力者の意向について皆が思っていることの想定」で、それぞれ社会的前提を構成します。
空気への想定と、絶対権力への想定。機能がどう違うか。平時はともかく非常時など激変する環境に社会システムが適応しなければならない場合、機能の差が出ます。権力者から見ても誰から見ても、空気への想定を制御するのは困難ですが、絶対権力への想定を制御するのは容易です。どちらが適合的であるかは自明です。
宮台
出口
確かに、中国だけじゃなくてソ連でも、レーニンやスターリンという一人の人間によって、ガラリと変わりましたよね。北朝鮮もそうだし、あるいはヨーロッパだってナポレオンによって一瞬で変わった。
僕は正直、自民政権が長く続くことで癒着した政官財を断ち切らないと何も変わらないと思って、民主党を応援していたんです。
僕もそうです。政治思想が異なる政権に変われば、政官財の癒着も変えられるかと思いました。ところが……。
宮台
出口
同じでしたね。
はい。
今申し上げたのは、日中は社会が一変しやすい点が共通するけれど、一変の制御が容易か否かが違うということです。
もう一つ、日本も中国も行政官僚制が分厚く、欧米なら市場が解決する問題を行政官僚制が解決します。ここにも機能差があり、日本は中国と違って、行政官僚制を政治家が全く主導できないのです。
また、共通する行政官僚制の分厚さの中でも、更に機能が違う点があります。日本の行政官僚は格差を最小化しようとする日本的伝統に従うので、官僚に任せておいても最下層が逆境に追い込まれることはありませんでしたが、中国の行政官僚は絶対権力者を参照して民を全く参照しないので、絶対権力者が厳命しない限りは格差を放置しまくります。
単純に良し悪しを評価できませんが、少なくとも急激な変化に対する適応力は、中国の政治システムの方が圧倒的に上です。格差問題その他も、中国の行政官僚は絶対権力を注視するので、中国共産党中央政治局常務委員会の集団指導体制下での権力配置次第で格差問題が最重要課題となれば、行政官僚が必死に対処します。
そう考えると、少し前まで「日本はいい国・中国はダメな国」「アメリカはいい国・中国はダメな国」という通念があったけれど、そう単純に言えなくなりました。アメリカだって、イラク戦争の口実だった大量破壊兵器の存在は、チェイニー国務長官がCIAの報告を握り潰した上でのデッチアゲでしたから、大した国じゃない。
宮台
心の革命と共同体自治
出口
僕は民主党政権になってもあまり変わらなかったことで、思ったことが二つある。 一つは、自民党だろうが民主党だろうが、みんなどっぷりと利権の湯につかっていて、程度の差はあれ、どちらも癒着していたということ。それともう一つ、結局政治家が官僚に使われている限り、どんな政権になっても変わらないだろうということ。 けれど今はのんびりやっていられる状況じゃないですよね。宮台さんだったら、どうする? 官僚を変えますか。
社会学の思考伝統では、どんな政治体制が適切かは、社会がどんな〈心の習慣〉に覆われているかで変わります。割れ鍋に綴じ蓋じゃないけど、日本の政治体制は日本人の〈心の習慣〉にマッチしています。その政治体制がグローバル化時代に不適合なのであれば、政治体制を前提づける〈心の習慣〉を変えねばなりません。
近代民主制と呼ばれる仕組は「参加と自治」という〈心の習慣〉を前提にします。具体的には〈引き受けて考える作法〉と〈合理を尊重する作法〉が前提になります。でも日本にはそれがないかわりに、〈任せて文句垂れる作法〉と〈空気に縛られる作法〉があります。先程言いましたが〈心の習慣〉は一朝一夕には変えられません。
そこで戦略が二つあります。第一は「空気を用いて空気を掣肘する戦略」です。「原発をやめられない社会」が〈空気に縛られる作法〉に由来するのは自明ですが、この作法を逆用して「今さら原発推進とか言ってるヤツはヤバイんじゃないの」みたいな空気を醸成するわけです。これを福沢諭吉的な戦略と呼ぶことができます。
でも既に述べたように、空気への想定の変更は、独裁者への想定の変更よりも遥かに困難です。少なくとも社会全体が空気に支配されてはならず、エリート層だけは空気に縛られず、空気への想定の変更を合理的に行える必要があります。「空気を用いて空気を掣肘する戦略」は、近代的エリートの存在を大前提とするのです。
でも霞が関と永田町の人材分布を見れば、この大前提から程遠い状態。短・中期的には打つ手がない。だから国全体を変えようとか一挙に救国しようとかいう発想を、諦めるべきです。アガンペンが言うように、資本移動自由化が進むと、統治単位が大きいほど行政官僚の技術知への依存度が上がるので、なおさら諦めるべきです。
そこで第二の戦略です。自分の居住地周辺での〈共同体自治〉に向けてチャレンジすること。これについては先に具体的な手順について話しました。〈補助金行政から政策的市場へ〉とか〈食とエネルギーの共同体自治へ〉とか〈住民投票とコンセンサス会議の組合せ〉とかがヒントになります。
僕はこの面では、世田谷区基本構想審議会座長代理として、あるいは保坂展人区長政策ブレーンとして活動中です。
宮台
問題は自治の不在にある
出口
中央集権的なものから、もっと地方で自立していくような動きが重要ということでしょうか。
日本的な中央集権と呼べるものがあります。政府であれ大企業であれ、無能な人がトップになることです。昨今の民主党政権とオリンパスを見れば思い半ばに過ぎます。日本的な中央集権は有能な人材をトップに採用するメカニズムを欠きます。アメリカと欧州と中国に共通するのは、有能な人材をトップにするメカニズムです。
一例を挙げると、これらの国々の政治家は、村や町の議員から叩き上げ、県や州レベルの議員に上昇し、最後に中央議会の議員になります。マスメディアも同じで、村や町のローカル新聞や地方のテレビ局から出発し、中央に上がって行く。大卒でいきなりニューヨークタイムズとか新華社に勤めるなんて絶対あり得ないわけです。
日本はどうか。東大を出ているか知らないけれど、大卒後いきなり朝日新聞の名刺で仕事ができます。そんなことができるのは先進国では日本だけです。経験値のないダメなヤツが偉そうに中央から情報を発信できるのです。あるいは小泉チルドレンや小沢チルドレンに見られるように、文字通りのチルドレンがいきなり国家議員になる。
この馬鹿げた仕組は、自治の不在に由来します。中央政治が自治を前提としないため、自治の経験をどれだけ積んできたのかが中央で重視されない。統治単位が大きくなるほど統治が難しくなるので、小さな自治単位から始めて経験を積んで大きな単位に上昇していかないと信用できない筈ですが、そうした発想がないのです。
宮台
出口
本物のチルドレンに政治をやられたら困りますよね。
さて、今後の宮台さんは、直接政治を変えていくというより、世論を啓蒙していく、つまり日本人の空気を変えていく方向に向かわれると思うのですが、するとやはり、メディアは大事でしょうね。
大事ですね。そう思うので、現に出口さんのメディアに登場させていただいております。
宮台
著者本人による著書紹介
出口
では最後に、宮台さんの本をまだ一冊も読んでない人に、最初にお薦めするのはどの本でしょう。
僕の本を初めて読む方は、『14歳からの社会学』という中学生向けの本か、『宮台教授の就活原論』という大学生向けの本から読んでいただくと良いでしょう。また、社会問題よりもガールフレンドやボーイフレンドとの関係に興味がある人は、そういう人向けに書かれた『中学生からの愛の授業』という本がいいでしょう。
どの本にも共通するモチーフは、性愛能力、自治能力、仕事能力、政治能力は、それぞれ独立したものではなく、例えば学業にかまけて性愛能力の涵養を疎かにした者は、自治能力においても、仕事能力においても、政治能力においても問題を生じるがゆえに、実存的にも幸せになれず、社会的にも貢献できないということです。
宮台
出口
宮台さんのファンで既に何冊か読んだ人に対して一冊薦めるとすれば?
僕の本を何冊も読まれた方は、僕の難解な学術本に挑戦してくれませんか。具体的には、28歳のときに執筆した東大の博士論文『権力の予期理論』と、それまでに書いた学術論文を集めた『システムの社会理論――宮台真司初期思考集成』です。後者は20歳代半ばで年3本以上学術論文を書いていた頃の文章で、最も難解です。
この二冊を読んだ方の多くが「こんな難解な学術書を20歳代半ばで書くとは凄いな」と仰いますが、僕が驚いていただきたいのは、1980年代まではこうした圧縮的思考を育て得るような場所が現実に存在したという事実です。二冊目の本ではそうした場についても回顧していますが、こうした場なくして僕はあり得ませんでした。
二冊目の『システムの社会理論』は、堀内進之介君を中心とする僕の教え子らが編集したものです。僕の過去論文を、それらについての僕と彼らの討論と合わせて、編集してくれています。その意味で、少なくとも僕の周辺には、こうした濃密な学術的討論空間が、今日では珍しいとはいえ存在することも知っていただけますね。
宮台
出口
それは宮台さんのファンならぜひとも読むべき一冊ですね。宮台さんの新しい考え、あるいはこれからどちらへ行くのかが最も示唆されている本は?
ミュージシャンの小林武史さんとの対談が、小林さんの公式サイト「エコレゾウェブ」に掲載されています。
原稿用紙百枚を越える長い対談ですが、今日お話しした日本人の〈心の習慣〉を踏まえて、音楽や演劇のシーンを活性化させることで若い人たちの社会性の水準を上昇させ得る可能性について、詳しく論じています。
こうした考え方の元になっているのは、戦間期の欧州マルクス主義の泰斗アントニオ・グラムシのヘゲモニー論です。僕が1990年代半ばに「援交女子高生」問題を喧伝したのも、2000年代に入ってずっと映画批評を書き続けているのも、この枠組に沿った活動です。この枠組は『システムの社会理論』に詳しく書かれています。
宮台
出口
なるほど。本当は映画体験など聞きたいことが沢山あったのですけれど、ぜひまた次の機会にでも。今日はありがとうございました。
ありがとうございました。ぜひまたお話しましょう。
宮台