松井孝治「教育再生」
はじめに
出口汪と著名人の対談・真剣勝負、第一弾は内閣官房副長官(当時)との対話です。
第一部・今の教育にかけていること、第二部・本質から政治を読み解く、第三部・本質を見極める力の全三部構成で公開していきたいと思います。
この対談は2010年5月10日に行われたものです。
第一部 今の教育に欠けていること
模倣教育で失ったもの
出口
いまの日本の教育の前身的なものは、蘭学に求められると僕は思うのです。
蘭学に求められると。はい。
松井
出口
幕府の鎖国政策のもとでは、オランダ語の書物しか自由に手に入らない。そのため当時、医学であろうが科学であろうが、西洋の学問とはオランダ語を翻訳することそのものでした。そして開国を機にオランダ語がドイツ・フランス語、やがて英語に変わっていっただけで、ずっと学問イコール、学術書の翻訳だったんですね。
明治時代、大学に行けたのはごく一部のエリートだけです。国は彼らが翻訳したものを、すべての日本人に一斉に模倣させる教育システムを作っていった。だから、文系・理系を問わず大学入試は英語中心で、その狙いは翻訳能力を試すことにあった。ここから、何年学んでもしゃべれない英語教育の型ができたのでしょう。
また西洋を模倣する訓練として、学校では算数の計算や記憶・模写を徹底させた。実際、これで日本はうまくいったのですね。模倣が優秀な人がどんどん出世していったし、またそれで企業も業績を上げられた。西洋の良いものをいかに早く見つけ、いかに模倣するかという時代が続いたのです。
出口
模倣から先進型の教育に切り替えるチャンスは、日露戦争が終わった後の頃にあったと思います。しかし、「戦争に勝った」とプロパガンダしたために、日本は軍国主義に入っていく。軍人教育はさらに模倣ですよね。上官の言うことをいかに素早く的確にやるかという。そして、終戦を迎えてしまった。
結局、日本の教育において、自分で体系的に物事を捉えて考えさせるような指導は、一度も行われなかったと僕は思っているのです。
そうかもしれませんね。参謀本部が弱く、国民との関係においてもただひたすら鼓舞するだけだったのも、考えるという訓練をしてこなかった結果かもしれません。
松井
今年は平城京が出来て1300年なのですが、いろいろな人と話をする中で、その間の歴史について思いをはせてみたことがありました。おそらくユーラシア、シルクロードから様々な文化が平城京にたどり着いた。続いて、京都を窓口に唐や南宋、明の文化が入ってくる。そして、今おっしゃったように江戸時代にはオランダ、明治になると英米やドイツ・フランスの大陸文化が入ってきて……、まあそれをずっと吸収する歴史とも言えたわけです。
そういう様々な文化を東西から取り入れ、それを古来の日本の価値観と混ぜ合わせ、いまの独特の日本の文化になった。
そして今、日本という国がどういう文化や社会を作っていくべきかということを、もう少し独自に考えていかなければいけない時期ではないかと思います。
松井
具体的に言うと、官僚制も近代ヨーロッパの中央集権国家の制度から取り入れたものを日本流にこなしてきたものです。それが霞が関という街を中心に、日本を中央集権化し近代国家を形成し、政治・行政制度とともに、日本の教育・経済・地方自治制度を発展させてきた。しかし、その発展させてきたものを、もう一回自分で考え直す訓練をしなくてはならない時期なのかもしれません。
ある種いびつな省庁縦割りと天下りによって、入省から75歳位まで一つの省庁グループが面倒を見る、従来の霞が関の構造の中に入ってしまうと、いわゆるエリートとされる人々であっても、結局所与の条件の中で一番効率的なやり方、あるいは自分が出世するやり方を目指して行動してしまう。日本人は劣った民族じゃない、非常に優れた人たちが沢山いるのに、それが全部箱の中に押し込められてしまって、本当の意味での問題解決ができないような官僚制度になってしまった。
松井
政治家も同じですよね。同じような構造の中で政治家は力を増してきて、特定の官僚グループと一緒に結んで、族議員と言われるような活動をしてきた。
私はいま「新しい公共」を提唱していますが、今言ったような従来の中央の官をヘッドにしたピラミッドが、各分野ごとに「公共の世界」を支配してきたわけです。しかし、残念ながらこの仕組みは、「トータルな視点で諸問題をどう解決するか」ということを考えるのが苦手です。問題解決を、あるいはそもそも問題の所在の見出し方を、もっとしなやかにできるような多極分散のフラットな仕組みを作らなければいけないのですが。
これは、おそらく出口先生のおっしゃるように、まず教育というところから入らないと実現できないでしょうね。せっかく素晴らしい人材がいるのに、殺してしまっているような気がします。
松井
出口
松井先生のおっしゃったことに、大事な問題がたくさん含まれていると思います。僕が批判した模倣とは模倣教育のことで、日本が昔からいろいろな国のものを取り入れてきたこと、たとえば中国の漢字から平仮名を作りましたが、これは模倣どころか、新しいものの創作と言えます。
日本人の文化は決して模倣・模写ではない。独自の文化を維持しながら、外部のいろいろな文物も積極的に取り入れて、どこにもない新しい文化を絶えず作り続けてきたと思うのですよ。
今、上野で長谷川等伯展をやっています。先日拝見させていただいたのですが、素晴らしかったですね。決して中国の模倣・亜流とは言えない独自の価値がある。これこそが日本の力だと思うのです。様々な文化・文明を取り入れて、こなしてきたそれだけの力はありますよ。
松井
出口
まさにそれが日本の一番大きな特質だと思いますね。話し出したらきりがないのですが、宗教的に言うと、世界の大多数は一神教の世界観によって、今に至る歴史や社会が作られてきたのに対して、日本は神道、キリスト教、仏教などあらゆる宗教を独自の風土の中に取り込んできました。
もしかすると日本の文化や考え方が、自分の信じる神以外を敵とする、硬直した一神教の世界観を変える可能性があるのではないかと僕は思っています。それを日本人として積極的に世界にアピールしていきたいと思っているのです。
そうですね。別の言い方をすると、多様な文明や価値観や宗教、それぞれを理解して、つないでいけるのが日本人なのだと思います。
いろいろ毀誉褒貶はありますけれど、鳩山(由紀夫)さんにお仕えしてきて素晴らしいと思うのは、やはりそれこそが日本人の役割であるとして、「“架け橋”としての日本」とニューヨークの国連総会で演説したことですね。この点は日本文化の一つの大きな特長になりうると思うし、それをきちんと教育できれば素晴らしいことだと思います。
松井
官僚主導の問題点
出口
ところが戦後の日本の教育は、そういうものを活かさない正反対の方に行ってしまったと僕は思っているのです。
最初に蘭学の話をしましたが、戦後復興するために、今度はアメリカのものを模倣吸収することになった結果、「学ぶこと」イコール「バラバラに分断された情報の記憶」としか捉えられなくなったのです。その典型的なものが学習指導要領だと思っています。
たとえば「中1の英語は、これだけのことをやらなければダメだ」と、プログラムを作っている人が決め、それを一斉に吸収しなきゃダメだと押しつける。できなかったら落ちこぼれてしまう。その結果、過当競争が限界を超え、当時の文部省は「ゆとり教育」と言いはじめた。「ゆとり教育」自体に僕は大賛成だったのですが、文部省がやったことといえば、情報を減らしただけなのです。そして、学力低下を招いたら、今度はまた情報を増やそうとする。そのたびに現場が混乱している。
結局、江戸時代の蘭学の発想のままずっと来て、その時その時に必要な情報を官僚が決め、それを増やしたり減らしたりの繰り返しなのです。
学ぶ楽しさや、体系的に物事を見た上で自分でものを考える力、例えば日本の伝統的なものを理解した上で、新しいものを自分で創造していく力などは、今の教育の中では非常に生まれにくい。というより、潰されるような教育がずっとなされてきたような気がしているのです。
出口先生が「ゆとり教育」に良い部分があるとおっしゃったのはすごく意外です。おそらく世の中の方から見ても意外だと思いますよ。
私は「ゆとり教育」を主導してきた寺脇(研)さんと友人です。特に文化の面で寺脇さんを尊敬しているのですが、教育について様々な議論が寺脇さんに対してもあると思います。もちろん、ご本人も「言いたかったことが伝わっていない、やりたかったことが実践されていない」という思いがあるでしょう。
私自身は、自分が受けた教育に感謝しています。すごくいい教育を小中高や大学で受けさせていただいたし、楽しかったですし。ただ、それは私の人格形成で言うとごく一部にすぎないのです。むしろ今の私が一年一年、仕事で、そして様々な人間関係の中で、いろいろな経験を通じて得たことの方がずっと大きい。
私は京都で生まれ育ったのですが、高校生までは基本的に関西の子としか接しませんでした。でも大学に行ったら、北海道や九州から来た人も、チャキチャキの都会っ子も、そして外国の人もいる。もう生活が一新するわけですね。
両親と暮らしてきた生活から一人暮らしになって、就職して、留学して、官僚としての経験もする、国際交渉もする、政治家になる、有権者と接する。私から見れば、小中高で接する情報以外にこれだけ大きな情報に接するわけですよ。
松井
小中高時代で得た情報、これは普遍的に大事なものも沢山ありますし、感謝しています。文科省が、「小・中学校時代に、これ位の知識やツールを学んでほしい」と基準を定めることに意味がないとは言いません。
しかし、長い人生を生きていくにあたって、より大事なのは、自分の周囲に溢れている情報や価値観をいかにこなしていくか、ということだと思うのです。それぞれの環境において、様々な情報や体験に接した時に、それをどう取り入れて自分のものにしていくのか。どうこなしていって、それをどう人に対して伝えていくのか。
ここを教えてないということが、私は今の教育の最大の問題点だと思います。
松井
論理力こそ教育に必要
出口
そうですね。僕も同感です。
官僚の方が携わった「ゆとり教育」の方向性は、おそらく間違っていないし大賛成でした。しかし、松井先生がおっしゃるように、子供たちがいろいろな情報を吸収し、それを自分の中で消化して新しい力をつける方法、あるいはコミュニケーション能力を身につけるための具体的な方法は、官僚の方にはわからないと思うのです。
僕の仕事は理想論ではないので、実際にそういう力を子供たちに与えていかないと仕事になりません。ではどうすればその力が身につくか。具体的に言うと、子供たちに論理力を与えることだと思っています。
出口
人間はそう簡単にはわかり合えない、だから論理すなわち筋道を立てなければならない――こういう考え方を僕は他者意識と呼んでいるのですが、論理力を持つことにより、社会に出た時に、家族でも友人でもない、年齢も立場も違う人間ときちんとコミュニケーションがとれるようになってくる。あるいは自分で考え体系づけて物事を整理する力ができてくる。しかし、今までの教育では論理力を鍛える指導は全く行われませんでした。この面での能力差も、単に生まれながらの頭の差を理由にして片付けられていたと思うのです。
僕は現代文を教えていますが、論理を教えることによって、子供たちのものの考え方が大きく変わっていくことを実際に体験しています。文章をなんとなく読んで、なんとなくわかった気がして、設問を見て合ったり間違ったりを繰り返しても、子供の中に変化は起こりません。そこで僕は「どんな文章の中にも必ず筋道がある。だから論理をしっかり追って文章を理解しなさい」と教えます。そして、具体的に筋道のとらえ方を教わった子供たちが文章を論理的に理解すると、言語の問題、文化の問題、近代の問題など、否応なく考えはじめるんですよ。
なるほど、論理力ですね。
松井
出口
入試問題の面白さは、子供たちが文章を選べないことにあります。どうしても人間は、自分の好みの分野、あるいは自分が賛同する考え方の本ばかり読みますよね。当然、考え方も狭くなっていきます。それに対して、入試のように選べないと、あらゆる分野のあらゆる考え方に触れざるを得ません。文章の筋道をとらえた子供たちが、否応なく多様な問題について考えはじめる。こういった訓練は、脳細胞の若い時にすごく必要だと思うのです。
ただ自分勝手に読んで、「なんとなくわかったような気がする」では他人に説明できません。自分の中で整理できていないから、結局すべてが消えていってしまう。こういった国語教育をずっとやってきたような気がします。
なるほど。
松井
出口
論理力育成をしっかり教育に組み込むべきでしょうね。それによって、小学校から生涯にわたって、より多くのものを子供たちが吸収できるようになりますから。
第二部 本質から政治を読み解く
「常識」をとらえなおす
出口
自民党の方には申し訳ないのですが、党の善し悪しとは無関係に、アンチ自民で僕はずっと来ています。理由は単純で、何十年間も一党独裁の政治が行われてきましたよね。どれだけ立派な党、素晴らしい政治家であっても、長いこと政官財が密着していると、必ず腐敗が起こってくる。
小手先でどれだけ教育を変えたところで、今のシステムの延長線上では、現場が混乱するだけで何も変わらないと実感してから、知の枠組みそのものを抜本的に変えなくてはダメだと思って僕自身やっているわけですが、政治の問題も同じであって、根本を変えないと、少なくとも政官財の癒着をまず断ち切らないと何も起こってこないと思うのです。
それこそが、我々が政治で目指していることで、民主党より自民党の方が立派なことを言っている分野だって、もちろんあると思うんですよ。われわれの政策にだって様々な批判もある。
要はそれを選挙によってちゃんと選べるのだということを、多くの皆さんも自覚していなかったのではないでしょうか。
今までは、ある枠組で与えられたルール――頑張りなさい、競争しなさい、人より早く走りなさい、人より少しでも良い成績を取りなさい――皆がそういうルール下の競争の中にいた。しかし、ルールそのものを変えられることに、今回初めて気がついたのかもしれません。
2年前、ガソリン値下げの大議論がありました。ガソリンの暫定税率で25円分税金が上乗せされていたわけですが、暫定税率が当面ということだったのにも関わらず、何年間も固定化されていたのです。当時はガソリンが高かったですよ。180円とかね。
松井
出口
レギュラー200円くらいになりましたね。
そういう値段の時に、「なんだこれは。税率を下げてガソリンを値下げしようじゃないか」と言って、皆がプラカードを持って、のぼりを立ててガソリン値下げ運動をやって。ああいう運動のやり方は個人的には好きではありませんが、それなりに意味があったと思っています。
その運動を応援したら、ある日の24時からパッと25円下がって、「あ、こういうことだったんだ」と。つまり、これまで当然の前提とされていたことを変えられることに気がついたのですから。
松井
問題意識を持つことで、それが道路特定財源とされ、その財源で道路を作ることを日本人自らが選択していたことに気づく。――ちょっと待ってください。この暫定税率というのは法律で決まっているんですよね。法律は誰が作っているの?自分たちが選んだ国会議員が作っているのでしょう――と。
そういうことなんですよ。実は自分たちが選んだ代表者が議論して、われわれの暮らしを変えることも、変えないこともできる。これが国民固有の権利だと日本国憲法には書いてある。それを小中高の授業、あるいは現代史の最後の方で学んで、なんとなく記憶だけはしていた。しかし、その背景にあることや、権利が実際に行使できることについて考える訓練は出来ていなかった。
あるいは違う文化の人たちに、日本はどういう国なのか、どういう歴史なのか、政治制度がどうなっているのかを説明できるような教育はなされてこなかったのです。
松井
変わりゆく時代を生きぬくために
この問題の根源はおそらく出口先生がおっしゃったように、なんとなく教えられて、それをなんとなく理解して、良い記憶力を持っている人が高い点数を取ることにあったのでしょう。でも、それだけではダメなのです。これからは世界中の人と付き合わなければいけない。同じ東南アジアでも全く違う文化がある。イスラムの国もあれば仏教の国もあればキリスト教が強い国もある。そういった違う国の人たちに、日本とはどういう国なのかを伝えられなくてはならない。
そして多様な文化の中で生きていくためには、コミュニケーションの中で、相手の言葉から本質を抜き出して理解・整理し、他者との違いをつかみ、そして自分はこうだという自己主張をし、最終的には違いを乗り越えてどこで接点があるのか、あるいは違うものは違うものとしてどう共生するかを考えられる人でなければ、言葉はキツいかもしれないけど、ある意味では生き残れない。なのに、そういう教育をやっていない。
松井
出口
そうですよね。
出口先生がおっしゃったように、論理性みたいな軸がきちっとあれば、情報の洪水や時代の変化にも対応できるでしょう。しかし、その軸がないとどうしたら良いか分からず、自分の殻に閉じこもってしまう。あるいは今までの体制の中における自分のポジションを守るという選択をしてしまう。
かつての受験戦争の勝ち組が多数を占める役人にはそういう部分が多いですよね。与えられたゲームのルールで勝ってきた延長で、どうしても自分が今生きている世界のルールの中で、自分のポジションを守ることに精力を注ぐ。それが既得権益や、自分たちの縄張りを守ること、あるいは天下り先を守ることにつながっていく。
このようになってしまった原因のすべてを教育のせいにするつもりはありません。もちろん個人個人の責任だとは思いますが、やっぱり最終的には教育を変えていかないと解決しないのかな、と思いますね。
松井
出口
そうですね。今おっしゃられるように、様々な人たちと国際的なコミュニケーションをはかったり、あるいは自分の考えを後の時代の人たちに伝えるのは全て論理の力ですから、やはり論理力がないと何もできないのです。それなのに教育が論理力に関してまったく何もしてこなかったのが現状だと思います。
ここを教えてないということが、私は今の教育の最大の問題点だと思います。
覚悟なき政権選択
出口
話は変わりますが、戦後初めて政官財の癒着を断ち切り、根本的なものを全て変えようとしている以上、いま混乱するのは当然だと思うのです。民主党に結構逆風が吹いていますが、逆に「なんだ、それ位の覚悟もなく国民は政権交代を選んでしまったのか」というのが僕の正直な思いです。
既得権益を持った人たちは当然必死で抵抗するだろうし、あるいは制度が根本的に変われば、やはりいろいろな問題や混乱も起こる。それらは当然織り込み済みなのに、なんでこんなに……と思ってしまいますね。
私たちの反省を込めて言えば、おそらくご批判の半数は出口先生がおっしゃったように、混乱して自分たちの予算や生活がどうなるのか不安になり、反発を持った方々からのものだと思うのです。
それと同時に残り半数のご批判は「もっと頑張れよ、もっと戦えよ、守りに入っていないか」という声であろうと思っています。
松井
出口
おっしゃるとおりですね。
これは当然のことなのですが、民主党、あるいは連立政権には様々な価値観や政策を持った人が集まっています。したがって政策によっては、従来の制度に対するノスタルジーを抑えきれない方も出てくるかもしれません。しかし、そこは私たちも勇気を持っていかないと、昨年の8月30日に「じゃあ変えよう」という選択をした皆さんの思いを理解していないのではないか、という批判につながって当然だと思うのです。
最近私たち、「民主党らしさ」とよく言います。つまり、長いものに巻かれずに、透明な意思決定をすることを我々は目指さなければならないのです。しかし、党内に必ずしもそういう体質ばかりではないものが見られてしまうことをどうするか、これは私たち自身の問題ですね。
松井
出口
お金の問題もいろいろあります。もちろん良いことだとは思っていませんが、ただ政治には当然、政治資金が必要という現実があるわけで、自民党であろうが民主党であろうが、誰もがやはりその現実を引きずってきているのではないでしょうか。そういった部分が多少なりとも強かった前の時代の話を、政権交代後のこの時期にわっと一斉にみんな掘り返していくというか……。
政治というのは闘争ですから、そういった闘争をしかけてこられるのは、まあ当然だと思います。むしろそれに対して、「過去そういう時代があった、そういう政治の中で政治家は戦ってきた。でもこれからはそのルールを変えよう」と、きちんと訴えていかなければいけないと思いますね。それは民主党として、これからもっと前に出していかなければならない。
松井
私の上司である鳩山さんはその気持ちを持っている人です。あの人はもちろん、ご自身で認められているように恵まれた家系で育たれた。だけどその分、ご本人もむきになっておっしゃっていますが、私腹をこやすような利権的な政治とは本当に無縁な人です。
鳩山さんのような方だから政治とカネのことを変えられる。これからきっと政治とカネについて大きな変化が起こってくると思います。起こさなければ何のために政権交代させてもらったのかわからないですからね。
松井
出口
鳩山さんについて言うなら、僕の感覚としては「あ、この人お金がいっぱいあるから、お金のために悪いことはしないだろう」というイメージを持ってしまって(笑)。
実際そうなのですけれど、ただ、やはり手続的なことを含めておかしかったことはおかしかったし、ご本人も痛切にそのことについて国民の皆様にお詫びもおっしゃっています。まあ次に何をやるかですね。
松井
第三部 本質を見極める力
「学力」とはなにか
本題に戻りますと、学制が布かれた明治5年から来る長年の日本の教育の仕組みをどう変えていけるかですが、「ゆとり教育が失敗したから、再び学力向上を目指す」とよく言われますが、考えるべきは、「何をもって“学力”と呼ぶのか」ということだと思うのです。
いろいろな情報を自分の軸をもって判断・消化して、主張を相手と戦わせることができたり、多様な方々としっかりとコミュニケーションして共生できたり、あるいは様々な価値観を止揚(アウフヘーベン)して、新しい解決策や新しい文化を生み出していける、こういった能力を高めることが必要であることはもう間違いありません。その能力の基礎として学力が必要なのだとしたら、私は学力をもっと高めなければならないと思います。
松井
結局、出口先生が最初におっしゃったこととつながるのです。与えられた情報をたくさん頭の中に詰め込んでそれを引き出せる能力、あるいは計算式を覚えて、あるものとあるものを掛け合わせたらこういう結果になるということを素早く検索できる能力、これに意味がないとは言いません。
だけどこれだけ様々な検索エンジンがあって、いろいろなコミュニケーションツールが発達した高度情報社会になると、そういう能力だけであれば、コンピュータの方が人間の頭脳よりはるかに勝っている。
松井
出口
そうなんです。
しかし、先ほどおっしゃったような、例えばデータだったらそのグラフを読み取って、何がその情報の本質なのかを読み取り、思考する力、書かれた文章なら文章の本質を読みとる能力、人の話の本質を読み取って、きちんと相手に自分の考え方を伝えられる力、こういった一番大切な能力は、コンピュータには備わっていないのです。
このような力を伸ばす教育は、私が受けた教育でもファジーな部分でしたね。国語・現代文の世界で言うと、中学・高校時代、まだ感性が新鮮なのでしょうね、いろいろな人の小説を読まされても、頭にその文章がスッと入ってきました。そして、そのイメージを膨らませて自分なりに感想という形で表出し、それを先生に褒めてもらったことを覚えています。
松井
出口
それは素晴らしい経験をお持ちですね。
いい先生に巡り合えると、マニュアル的ではない、きちんと本質を読み取ったロジカルな感想を子どもが言うと、「それはいい、お前のこういう部分がすごく良いよ」と言ってくれるのではないでしょうか。そういう先生が私の中では何人かいましたね。
しかし、世の中そういう先生ばかりではないし、いい先生に出会える確率がそう高いとは限らない。
ある文章やデータが訴えようとしていることについて、「こういうやり方をすればきちんと読み取れるんだよ」と、論理的に教えてくれる人は、やはり少ないのかもしれませんね。
松井
マスコミの問題点
出口
教育の問題と政治の問題はすごく似ていると思うのです。先ほど「ゆとり教育」の話がありましたけれども、当時の文部省が総合学習の時間、あるいは生きる力をつけるための学習を目指したこと自体は正しかったと思います。ただ実際どうやればいいのかについては現場まかせで混乱が起こった。ところが何年か経つうちに現場が徐々に工夫をして、様々な良いこと、面白いことをやりはじめたんですよ。しかし、これから成果が上がりそうだな、という時に国際学力調査の比較があって、点数が下がったとマスコミが騒ぎ始めた。
僕に言わせると、これは織り込み済みの話のはずです。単なる点数をとるための勉強量を減らした代わりに、総合学習や生きる力をつけることに重点を置こうとすれば、その分いったん成績は下がるのは当たり前。それなのに、そこでまた大騒ぎになってしまって、ガラリと元に戻ってしまった。
民主党政権への報道についても似たようなことを感じるのです。マスコミ、一般の国民、もちろん政治家自身もそうですが、3つそれぞれに問題があるように思いました。
私はもちろん新聞やニュースに目を通しますが、それだけではなく自分が信頼する方々のブログやツイッターにもアクセスします。新聞とかテレビとかネットというメディアで判断するというよりは、そのメディアの上でのどなたの発信かという方に関心があるのです。また、マスコミの論調だけではなく、個人のHPなどの多様なメディアの論調を、自分のブレンドで吸収できる社会になっていく萌芽が見られるなと思います。
松井
残念ながら、新聞やテレビの報道は同じような基調が多いですね。私はアメリカで2年暮らしていましたが、たとえばニュース番組であったり、あるいはバラエティであったり、日本ほど多くの人が同じようなコンテンツに影響される国は少ないと思うのです。
それぞれが多様なコミュニティの中で、いろいろな人の批判や論調を相対的に読み解くことができる社会の方が望ましいのではないでしょうか。マスコミが言っていることがすべて間違っているとは思いません。だけど出口先生がおっしゃったような批判はありますね。時々そういう批判に共感するわけですが、もうちょっとワンサイドではない情報を出してほしいし、チャンネルを変えてもどこも似たような論調というのではなく、やはり多様性があった方がいいですね。
松井
出口
新聞・テレビが真実を報道すると言われていますが、逆であって、マスコミが世論を作っていると思うのです。
われわれ一般の国民には、実際の政治がどうなっているか知りようがありません。マスコミの報道でしか知りえないのに、その報道が断片的で、体系的でないのは問題だと思います。
その時々に、多分記者クラブなどで得た同じ情報をザッと流すだけであって、その背後に一体何があるのか、あるいは過去の出来事と体系的にどうつながっているのかについては、新聞ではわかりませんよね。また、何年か前に言ったことと、まるで反対のことを報道することもあります。これは出来事を体系的に捉えていない、一つの証拠であるような気がするのです。
クリティカルに捉える
戦時中、嘘で塗り固めた大本営発表をした当時の軍部には、ものすごく大きな責任があると思います。しかし、真実をどこまで知っていたのかは解りませんが、当時の大新聞も基本的に言われるがままの報道をした。それから受け手の国民も新聞で報道されることは真実だと受け取らざるを得なかった。
もちろん、報道機関には「真実を報道する」というプライドはあると思います。ですから戦中の一時のことだけを批判するのはフェアではないのかもしれませんが、そのあたりについて、もう少し批判的な視点で考え直さなければならないのではないでしょうか。
松井
これまでの日本は、「与えられた情報は正しいはず」という前提に立って、その情報にのっとって判断をし、スピード・精度を競ってきました。しかしこれからは、いろいろな情報があるけれど、それを建設的かつ批判的に捉える見方が大切になってくると思うのです。
藤原和博さん(元リクルート・民間人初の公立中学校長)がいつもおっしゃっている「クリティカルシンキング」。クリティカルというのは、決して無責任に批判するということではありません。まずクリティカルに物事を捉え、「本当にそうか?それでいいのか?」と問いかけてみる。こういった訓練が、今の教育ではなされていないんですね。
松井
出口
おっしゃるとおりですね。
ある文章について、論者の主張をきちんと論理的に読み取り、それが自分の考え方に照らして正しいのか、同意すべきなのかを判断できるようになるためには、個人個人が与えられた現実に対して、望むらくはクリティカルに物事を捉え、そして違うなら「違う」と、あるいは別の視点から見れば別の考え方もあるのではないか、ときちんと相手に伝えるという基礎訓練が大切だと思うんですよ。
松井
もちろん日本的な、「まあまあ、四角四面に物事を捉えなくてもいいじゃないの」という姿勢にも良さはありますよ。良いと思うのだけれど、それにはまず、相手の言っていることをきちんと捉え、正しく理解した上で、「違いはある。だけど世の中に溢れる相違の中で、あなたと私のここの相違は、このレベルの違いでしかないのだから、それ位はいいじゃないか」とか、あるいは、「違いは大きいけれど、別の大きな価値から見れば、この2つだけが対立軸ではないのだから、ここは考え方の違いとしてお互いに乗り越えていこうじゃないか」というように、論理的に考えてやらないと、なあなあになってしまうと私は思うのです。
松井
新時代のコミュニケーション
このバランスは難しいですね。いま「新しい公共」とか、政治と国民の距離をどうやって近づけるかというプロジェクトを、官邸の中で作業チームを作ってご一緒しているのですけれど、その時に「ああ、こういう素晴らしい考え方があるな」と感じさせる人と出会ったのです。
有名な女性でテレビにも出ておられる方なのですが、議論をしていると、全体の流れ、雰囲気が出来てきますよね。だけどその方は、流れに棹をさすのです。棹をさすのだけれど、きちんと自己主張して、最後は「それは違うと思う。でもいろいろ議論をしたら、違いはあるけれど、それはそれで良いと思いました。そういうことでしたら私は納得します」と言って、パッと合意されるんですね。
松井
出口
なるほど。
やわらかく、「まあいいじゃないですか」と妥協したり、先送りすることが日本では多いのですが、やはりこのバランスだと思うのです。あまりに自己主張して、少しでも違うものを受け入れないほどの頑迷固陋に陥ってしまうと良くありませんが、彼女はそのバランスが絶妙で、勉強になるなあと思いましたね。
松井
出口
ご自分できちんと考えていらっしゃるのでしょうね。
しかも彼女は、インターネットメディアの中で、いろいろな人と意見を戦わせながら収斂させていくことを、ずっとやっておられる方なのです。
ネット社会における意思形成においては、空気を読んで物事を何となく処理していくという、私たちが生きてきた時代のやり方はできないのかもしれません。ネット上のコミュニケーションの取り方は全然違うのだなって、日々実感しています。
これだけのネット社会は、私が40年前に受けた教育ではまったく想定していない事態です。ここ10年ほどで盛んになったネット社会というプラットホームにおいて、自分がどう適応し、どうコミュニケーションを取るかなど、昔の学校で知識として教えることはできませんよね。
松井
現代人を取り巻く環境は、ものすごい勢いで変わっています。その環境の変化についていく力、先を見通して生き抜く力みたいなものは、小・中・高の教育でそのすべてを知識として与えることはできないのです。
結局、それを消化していくための基盤の力、自分の中の座標軸をどう作っていくか、あるいは、新しいものと古いものを自分の中で調和させ、こなしていく力をどうつけていくか、そこが勝負ですよね。
松井
出口
まさにその通りというか、本当に松井先生に文部科学大臣になってほしいと思っているのですが(笑)
とんでもない、そんな資格はありません。
松井
「感情語」とワンフレーズポリティクス
出口
様々な教育現場を見て思うのですが、おそらく松井先生の学生時代の環境と、多くの今の子どもたちが置かれている環境は、かなり違うのではないでしょうか。
先ほどのマスコミ世論の問題ともつながる話なのですが、僕は言葉を「感情語」と「論理語」に分けて考えています。そして、今の子どもたちは、論理語が使えない。
感情語とは、人間がもともと持っている、他者意識のない言葉だと考えています。例えば「ムカつく」とか「ウザい」などと言いますね。今の子はすぐ「ムカつく」と言って、自分の不満を誰か察してくれと願う。ダメなら突然キレるか、ひきこもるしかない。
なるほど。
松井
出口
まさに赤ちゃんが泣くのと一緒です。自分が不満だから泣く、そうすると誰かがその不満を察して解消してくれる。誰も何もしてくれなかったらむずかってしまう。この感情語は、教育訓練を経て後天的に獲得する論理語と異なり、いわば肉体に篭った感情を音にした言葉です。
確かに。非常にわかりやすいですね。
松井
出口
なぜこのように最近の子供たちから論理語がなくなって、感情語でしかコミュニケーションできなくなったのかと言えば、議論をしなくなったり、難しい文章を読まなくなったからだと思うのです。文章はメールで沢山書くけれど、ほとんどが絵文字。あれは全部感情語なんですよ。そして、ゲーム、アニメ……。それが悪いとは思いません。しかし、今の子供たちは松井先生の時代と違い、一体どこで論理的訓練をやるのかと思うのです。
感情語しか使えない人だらけの社会になってしまうと、まさに小泉元首相のようなワンフレーズ政治がうまくいってしまう。きちんと筋道で体系づけて説明しないから、反論のしようがない。感情語しか使えない人間がマスコミの中心になってきて、それでヒステリックな世論を形成してしまう。
だから、根本的に教育のその部分を変えないと政治も変わらないし、マスコミも変わらないのではないかと僕は思うのです。
本当にそうですね。実感します。ワンフレーズポリティクス、要するに一言でパッとその場の空気を言い表せるような言葉、たとえば「あー、その議論ウザい」という一言でラベリングしてしまうのです。「その議論のどこがおかしくて、どこが受け容れられるのか?」と尋ねようとしても、テレビではさせてくれません。「いや、端的に15秒で説明するのが政治家の能力、メディアで生きる人間の能力ですよ」と言えば聞こえはいいのですが。
おっしゃったように「あ、それいかしてるね」といった感情語は、どこの国でも言いますよね。アメリカ人だってIt’s coolって言う。でもそういう言葉だけのキャッチボールで、政策を議論されてしまうのはすごく危ない。
松井
例えば、私は昔官僚でしたが、「過去官僚」という言葉があるのです。そういうレッテルをある人が貼って、それを過去官僚イコール、守旧派、抵抗勢力と……もう論理ではないんですよ。
小泉さんはある種天才で、政治闘争におけるそういう言葉の使い方がものすごくうまかった。だけど同時に、国民の皆さんに固いものを噛む力みたいなものがなくなっていったような気がします。
咀嚼して噛みこんでみたときに、中に砂が入っているのか、噛み応えのあるコシがある食べ物なのか、味わいがじんわり出てくるのか、そういう噛みこむ力がなくなって、全部流動食でパッと口に含んで甘い、辛い、美味しい、そういう食べ物しか入らない。ちょっと固くて、口の中で20回30回噛むような食べ物はもういらない。俺たちそんな面倒くさい説明は聞きたくない、ウザい……社会としてはものすごく危険です。
松井
出口
ひどい状況になっています。だから世論も右に左に180度ヒステリックに揺れ動いてしまう。
おっしゃるようにヒステリックですね。それが情感、情感豊かな社会ということだったら良いと思うのです。そうではなくて、「いかしてるな」って思ったものは受け容れられるけど、その判定を瞬時にしてしまう。
ツイッターではいろいろな人がそこで出会ったり、できた繋がりのなかでさざなみのような連鎖反応が伝わっていく。それはネガティブなものもポジティブなものもありますけど、素晴らしいメディアだと思うのです。しかし危険もある。あの140文字に制限された世界では、端的な感情表現がどうしても多くてね。
テレビが出てきた時に、「新聞に比べてどうか」という議論があったように、それだけでツイッターのすべてを否定することはできないでしょう。世の中そういう時代になっているのだから、その中でどういうコミュニケーションを考えていくかということですね。
松井
出口
だからこそ、論理力がないと怖いんですよね。教育の改革が急務だと痛感しています。