これまで論理の重要性をお伝えしてきましたが、学校の先生方から「論理というけれど、感性も大事なのでは?」という質問を受けることが多くあります。その答えとは。そして感性を教えるにはどうしたらよいかについてもお話します。
「感性や想像力も大事じゃないですか?」~その答えとは~
学校の先生からよくある質問があります。
「論理というけれども、感性や想像力も大事じゃないですか?」
さらに「AI時代はどちらかというと論理ですよね。だからAIが持ってないものと言ったら、感性とか発想力、こういったものですよね。そういったものを教育では重視すべきなのでは?」と言われる先生方が多いです。
こういった意見を多く言われるのですが、論理的な思考力と感性、想像力は表裏一体なのです。どちらも必要なのです。
ノーベル賞物理学賞を最初に日本で取った湯川博士が「最後は美的直感である」と書いています。
物理学の新しい法則を見つけるときは、最後は美しいものを選ぶ、美的直感。
ただ、ここには2つポイントがあります。
一つめは、ぎりぎりまで研究し、論理的に考えていく、本当にぎりぎりまで。そして最後に新発見をするときは美的直感で飛躍する。
もう一つは、美しいものを信じる。美しいものは何かというと、規則性のあるものですよね。そういった意味で、論理と最後の発想力というのは、表裏一体じゃないかなと僕は思っています。
「論理的な思考力」と「感性と想像力」を両方育てる教育
これからのAI時代には、2つの能力が要ると思います。
AIを使いこなして新しいことをやる人がこれからの時代は活躍するでしょう。そのためには論理的な言語を使いこなせないとダメなのです。
もちろん、AIにはない感性や想像力。これを身に着けた人間はAI時代に活躍できるでしょう。
でも、この2つは矛盾するものではないのです。だから、論理的な思考力を身につけたら、一方の感性とか想像力が育たないかと言ったら、そうじゃない。やはり両方を教育においては育てなければだめなのです。
どうやって感性や想像力を教えるのか?
学校の先生が感性とか想像力は教えられないのです。これを下手に教えると、先生の感性の押しつけとなってしまう。
では、どうしたらよいのか・・・それは、環境を作ってあげるのです。
例えば、いい音楽を聴かせるとか、いい美術作品を見せるとか。あるいはそれを非常に大切にするような、こういったカリキュラムであるとか、こういった環境を作ってあげるのです。
感性を伝えるのは論理の力
そして次に、デッサンとか、楽譜とか、つまりその感性や想像力をきちんと形にする、あるいは人に伝える。そこで必要となるのが、論理なのです。
やはり論理がなかったら独りよがりになってしまって、いかに感性でも相手に伝えることができないのです。
先天的なもの、後天的なもの
先天的なもの「個性」「感性」「想像力」
この人は頭がいいとか悪いとか言います。一人一人の遺伝子があり、無限のいろいろな要素からこれが得意だ、これが苦手だ、といういろんな要素がヒトゲノムの中に入っています。
だから単純に偏差値のように一つのものさしで、こっちよりもこっちが上だというのは違うと思うのです。人間というのはそう単純じゃない。無数のいろんな要素の中で遺伝子があって、それが一人一人異なって、個性となる。
後天的なもの「論理」
論理というのは、言語を使って、物事を考えたり、コミュニケーションをする際に必要となります。
赤ちゃんは生まれた瞬間に言語を持っていません。論理というのは、後天的に学習教育訓練によって習得すべきものなのです。そこが決定的に違う。感性、想像力は教えられない。でも、それを育むような環境を作ってあげたり、プログラムを作ってやるってことが大事なのです。
今の子どもたち、大人たちも含めて論理力が欠けているとすると、そのような教育を受けていないから。だから僕はしっかりとした教材、プログラム、あるいはマニュアルを提供して、全ての子どもたちが論理的な思考ができるように、今一生懸命やっているわけです。
論理は人間愛
感性も想像力も大事
特に小中高と論理力的な思考ができる教育を受け、訓練し、身につけることによって、その後の人生が全然違ってきます。その上で、感性とか、僕は感性も想像力もすごく大事だと思っています。
僕はもともと小説家志望で、さらに専門は文学ですので、どっちかというと論理よりも感性の方なのです。ただ、論理を身につけることによって、それを多くの人に伝えることができました。
「論理」とは「理屈」ではなく「相手を理解したい、相手に伝えたい」
論理でよく誤解されるのは、冷たい、機械的である、あるいは人間臭さがないと思われています。論理的な人間と言ったら嫌われそうですよね。これは、論理と理屈を一緒くたにして、「何か理屈っぽくて面倒くさい人間だ」というふうに思われることが多いからです。
でも、そうではなく他者意識前提なのです。つまり「相手を理解したい」「相手に伝えたい」という人間の根っこの部分が論理なのです。
日本語や英語を論理的に使うことというのは、お互いに人間同士はそう簡単に分かり合えないけれどそれでも何とかつながりたい、相手のことを理解して、自分のことを分かってほしい。僕が今やっている論理は究極の人間愛なのです。
ですから、決して非人間的な、機械的なものではないんですよね。むしろ逆なのです。
僕の論理というのは本当に人間くさいものであって、決して機械的なものではない。こういうふうにぜひご理解いただければと思っています。